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2024 1/31 『北区立西ヶ原みんなの公園(東京外国語大学跡地)<御薬園 谷田川の水源となる湧水>と下瀬坂 巣鴨庚申塚にあったファイト餃子<学生多数参加の大食い早食い大会>』

案内板<まちのうつりかわり>から引用ーーーーーーーーー
この場所には、海軍技師の下瀬雅允が開発した下瀬火薬を製造するため、明治32年(1899年)に、海軍下瀬火薬製造所が建設されました。
下瀬火薬は、日露戦争で使用され、世界的に注目を集めました。大正時代、下瀬火薬製造所は、海軍火薬廠製造部第五工場、さらに海軍火薬廠爆薬部へ名を変えていきました。一般には、海軍火薬製造所などと呼ばれていましたが、昭和4年(1929年)頃、移転していきました。
その後、周辺の宅地化が進むなか、昭和19年(1944年)に東京外国語大学(当時は東京外事専門学校)が一ツ橋から当地に移転してきましたが、第二次世界大戦の戦災により、校舎は全焼してしまいました。
昭和24年(1949年)に東京外国語大学が新制大学として発足し、平成12年(2000年)に府中市に移転するまで、東京外国語大学西ヶ原キャンパスとして、多くの学生が学び、巣立って行きました。
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その後、防災公園として整備されて今にいたる。

公園は谷田川が削った谷、傾斜地を背負っていて、傾斜地の上から下にかけて坂があり、下瀬火薬から引用してその坂を下瀬坂と呼んでいる。

案内板<下瀬坂>から引用ーーーーーーーーー
この坂は、明治三十二年(一八九九)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外国語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。
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地図の青丸部分が谷田川(谷戸川、愛染川とも呼ぶ)の水源である湧水。
湧水が豊富だったから御薬園がつくられたのだろう。

今から35年程前、巣鴨庚申塚にかつてあったファイト餃子(現在は巣鴨郵便局附近に移転)では定期的に大食い(早食いだったか)大会が開催されていて、同級生の友が参加して、何十個だったかなぁ、えらい早く平らげてとても盛り上がった。熱々で口をやけどするので、コップの水につけて食べていた。
店内にはチャレンジ成功者の貼り紙などがあって、東京外国語大学の生徒も多かった。すぐ近くだったからよく寄っていたのでしょうね。近くの都立高校に通っていた自分らは、土曜日の放課後にはたまに寄っておいしい餃子セットを食べて、卒業後もしょっちゅうファイト餃子へ食べに行っていた。
移転してからは、混んでいることが多いので、店内で食べたのは数回かない。売り切れていなかったら、冷凍生餃子をちょくちょく買ってお土産にしてる。

※写真は十数年前、移転前のファイト餃子。良い店構えですよね。

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■北区西ヶ原〜滝野川 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)

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■2017 1/16 『どちらも名店 <ファイト餃子> <丸十ベーカリー>』
■ホワイト餃子を家で焼く
■ホワイト餃子アディクト
■ホワイト餃子(ファイト餃子)と肉まん

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2024 1/30 『18284km』

2009年から走り始めてどのくらい距離いったかJOGNOTE(ウェブサービス)とNIKEとガーミンのアプリを重複部分を除いて合算してみたら少なくても18284km(誤差+300kmあるけど、はぶいた)くらいになった。地球半周弱くらいですね。
走ることで怪我したことは一回だけで、走り過ぎによるランナーズニー?だっけかな、左膝の横にある靭帯が骨にこすれて歩くと痛むってやつ。多くの人が経験するらしい。自分はその一回くらいかな、あ、ストレッチしてたら腰の筋繊維の断裂(ぎっくり腰っていうのかな。ブツって体に響いた音がした。)で、1週間床に伏せていたことがあった。そのくらいかな。

無理してないのが(当たり前だけど)良いっていうことでしょうね。
足の裏はイボやタコもなく、皮もめくれてもなく、ごつごつもがさがさもせずにきれいなもんです。

一番下、ガパオ風パクチーどっさり焼きそば。適当に作った割には美味しかった。

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2024 1/26 『東武東上線 下板橋駅前 <谷端川暗渠沿いに立ち並ぶ駅前飲食店> 下板橋通り(補助第73号線 かつては“弁天前道”と呼ばれた)と<池袋東貝塚・谷端川 お多福弁天>』

地図上から1〜2枚目は1987年の“東京の住宅地図”を引用。3枚目の地図が現在。
そして、その下の1〜3枚の写真は<下板橋駅の写真展(2016年8月頃>より引用。2016年8月に撮影したもので、今から約20年前と記載されていたから1996年頃の下板橋駅と駅前に立ち並ぶ飲食店の写真。

<北口・駅前風景>から下は2024年1月の下板橋駅前を撮影。
緑で囲んだ部分が該当するかつてあった駅前飲食店の跡で、僅かに谷端川跡に架かっているように見受けられる。どうだろうか。
飲食店は平屋のプレハブのように見えるので、建物の荷重が比較的軽く、建設や撤去が容易だったのだろう。これらの飲食店は2000年初頭に立ち退きしたと思われる。
暗渠後に建てられたのか不明だが、これらの飲食店ももれなく川には背を向けて入口があり建物が建っていたことがわかる。

谷端川は下板橋駅前で直角に流れを変えてすぐにまた直角に折れて、JR板橋駅方面へと流れていく。このあたりはかつては沼地だったために流れが悪かったことがよくわかる。(北区の王子駅前の石神井川の旧流路も同じようにほぼ直角に流れを変えていた。)
昔は近くにお多福弁天が祀られていて、現在は少し北上した通り(補助第73号線 かつては“弁天前道”と呼ばれた)沿いのビルの1階に移されて今も大切に祀られている。

地図と写真で青く囲った部分の谷端川沿いにも、かつては商店が立ち並んでいたことがわかる。現在は遊歩道(緑道)と駐輪場に転用されている。
また、赤く囲ったところは中華<点心>が今も健在で、数年前まではラーメンが300円台でとても安く提供されていて、町中華愛好家や地元の人々に今も愛される名店としてよく知られている。
余談だが、谷端川跡沿いを上流へ踏切まで進むと、高田道沿いに美味しくて安く量も多いことでよく知られている名店の中華料理<ひろし>がある。こちらのご主人は、高級中華料理<登龍>出身とのことで、ラーメンもとてもおいしいと評判。

この下板橋駅前の通りは<下板橋通り>と呼ばれ、都市計画道路 補助第73号線で、北は赤羽駅から環七を越えて十条銀座の裏を突っ切り、本郷通りと交わり、埼京線の線路沿いをなぞって、石神井川を超えて国道17号線と交わり、その先が現 下板橋通りとなる。
下板橋駅前から先は池袋本町を突っ切り、川越街道と交わり、その先は池袋の芸術劇場前の劇場通りとなる。消防署と豊島区立郷土資料館の先は、目白通り方面へと結ぶ計画となっている。

※池袋本町では、道路建設の為に立ち退いた敷地が池袋東貝塚遺跡の一部であることが判明しているので、何年か前に発掘調査が行われた。(現在も進行中か)

【関連記事】
■醤油電車(東武東上線)<東上鉄道記念碑> 玉淀<荒川橋梁 樋の下>
■下板橋駅ミニ写真展 東武東上線特急とマンモスプール

■谷端川のお多福弁天(板橋区板橋1丁目)
■谷端川 高田道沿い<子易神社境内 田楽橋の橋桁(板橋区板橋2丁目)>
■谷端川 雲雀ヶ谷支流(名も無き小川)とお多福弁天沼(お多福弁天様・橋かけ弁天様)

■谷端川と池袋の名の由来 古道 高田道
■雑司が谷 未来遺産 雑司が谷・高田と池袋本町と板橋宿をむすぶ高田道
■古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
■池袋一丁目(旧 西巣鴨町池袋) 平和通り商店街<古道 高田・雑司谷道>沿いにある池袋の森(島田牧場跡地) ユリノキとトンボ池(湧水)/谷端川 島田牧場支流・島田屋敷支流
■池袋 四面塔尊 辻斬残骸 無縁仏の供養 池袋村 高田道<四ツ辻付近の追はぎや辻斬> 【2023年3月10日 加筆:<「何か◯◯したのですか?」と、奇妙なことを尋ねる日傘の女性>】

■<昭和二十年 東京地図> <続・昭和二十年 東京地図 周縁のこと> ー終戦後40年前の東京 そして今から40年前の東京ー 王子スラム(王子バラック)や池袋二丁目 三業町<百軒店>(三業地)など

■池袋富士塚と<谷端川>舌状台地に広がる池袋西貝塚(氷川神社裏貝塚)・池袋東貝塚
■池袋東貝塚遺跡(<谷端川>舌状台地)

■北区上十条2丁目の出桁造り 木田酒店

■石神井川 河川争奪 音無渓谷
■王子駅西口の石神井川氾濫と<石神井川(音無川)沿いにあったバタ屋(バタヤ)部落>・<板橋区大谷口上町・大山と豊島区要町・千川のバタ屋部落 ースラム・貧民窟 バラックー>

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