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2021 12/29 『板橋区 志村古墳群<お伊勢塚古墳>』

遺跡地図の黒丸のさらに内側の黒丸部分にお伊勢塚古墳があったという。
高低差の地図、航空写真をみても分かるが、武蔵野台地の突端部分をぐるっと出井川が流れ、低地は荒川の氾濫源となり、かつては海が広がっていた。

いたばし風土記より引用ーーーーーーーー
熊野神社のある丘陵全体が志村城跡でもあるわけです。
神社は平安時代の長久三年(一〇四二)この地方の豪族志村将監が紀州の熊野神社の分霊をここにお祀りしたのが始まりだと伝えられています。
源義家が奥州の安倍頼時を討つため出発の際この神社に戦勝を祈ったとも伝えられます。
神殿は舌状台地のほぼ中央部にあたります。本殿の裏側に小山の姿が見えますが、これは古墳で、その塚の上に建てられています。
江戸時代・明治時代の改築の時、直刀や鏡や合子(香入れ)が発掘されたことから古墳というのは経塚ではないかと考えられます。
この社を中心に志村城が作られ、土地の豪族志村氏も住んだのかも知れませんが、康正二年(一四五六)千葉氏が板橋地方に移入した時から千葉隠岐守信胤(のぶたね)が赤塚城の前衛拠点として守りをかためていたといわれています。
この城は約七十年後の大永四年(一五二四)に小田原の北条早雲の子氏綱が、江戸城から逃げ出して川越城へ走る上杉朝興を追ってここで追いつき、その戦いにより落城したと伝えられます。
上杉家と千葉家は主従にも似た間がらですから、あるいは朝興の軍が志村城に逃げこんで、戦いの巻き添えを喰って落城したかもとも考えられます。
この大永のころには志村城主は千葉氏から篠田五郎に代替りしていたのか、延命寺縁起の開基見次権兵衛は篠田の家臣と記録されていますし、初代城主の千葉信胤の子孫は全然記録がありません。信胤の重臣に篠田五郎なるものがいて、主君のあとをついだとの見方も出てくるわけです。
この城は中世の平城の典型的な姿です。地形の天嶮を利用し、北の山すそまで荒川の水がしたし、南に出井川の流れをめぐらせた要害堅固な城だったようで、丘上の現志村小学校こぱる工場敷地を本丸に、熊野神社社殿の下から学校校庭にかけて〜壕を掘り二の丸、さらにコパル第二工場と神社境内境にも壕を設けて三の丸に区分けし、山のへりにも空壕がめぐらせてありました。コパル第一工場の建設で山頂の桧林が整理されるまで十数個の古墳がありまして、最後の一番大きなお伊勢塚と呼ばれた円墳がこわされたときには一体分の人骨が掘り出され、現在も事務所の前に移設埋骨されて古墳のおもかげを留めております。
熊野神社が現在のように銅葺屋根に改められたのは昭和三十二年です。それまでは萱葺のゆかしい社で、今の本殿の右側に建っている絵馬堂と同じようでした。この絵馬堂が明治の改築までの本殿ではないかと想像されます。
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お伊勢塚古墳があったと言われている場所には集合住宅が建っていて古墳は消滅したという。上記にも書かれているが、一体分の人骨が発掘されたそうで、付近には十数個の古墳があったというが開発に伴いほぼ消滅したのは残念ですね。
この本は昭和50年初版(昭和64年初版・平成18年訂正)で、それよりも前の風景が書かれているので、<事務所の前に移設埋骨されて古墳のおもかげを留めてります。>はもう消滅したのではないかと思う。下から3枚目が現在の日本電算コパル株式会社で、社屋の右側がお伊勢塚古墳があった場所で集合住宅が建っている。
また、お伊勢塚古墳のすぐ隣りには熊野神社が造営されていて、本殿は塚の上に建っていて、さらにすぐ東にも塚が遺跡登録されているので、今度掲載したいと思う。
渋沢栄一の別邸があったと(非公認)される眺望の良い場所は昔から今も一等地だろう。集合住宅にお住まいの方は富士山を見ることができるのではないだろうか。

板橋区史<考古>編より引用ーーーーーーーー2022年1月13日加筆
お伊勢塚古墳
志村一丁目一六番コパル第一工場内にあった円墳で、直径一三メートル、高さ三メートルの規模をもつ。
調査を行った北條によれば「地面下二米程に平鍬けずりあとのある巾一米四〇程の蒲鉾形の天井のある玄室がほぼ南北にあり、人骨一体分が掘り出された。頭蓋後頭部、大腿骨、上・下肢骨、歯等があった。副葬品としては拳大の巻貝一コ、土師器高坏の上皿部分一コ、拳大の河底石数十コは副葬ではなかろうが、玄室の南側から出た。また、密掘が行われたらしい。」との報告をした。北條が現地におもむいたとき、すでに古墳は二〇メートルも移動しており、もとあった古墳の二メートル下に人骨を伴う玄室があったという。
このお伊勢塚古墳について小西は、盛り土のある古墳(お伊勢塚)と、玄室とは別個のものと判断し、北條の報告した玄室とは、崖面にうがたれた横穴墓であろうと推定した。その根拠として、棺座部分に礫を敷いた蒲鉾形の天井をもつ構造に注目し、その形態から横穴墓の特徴と一致するとみたのである。
一九五三年五月八日の毎日新聞掲載の人骨は極めて保存状態のよいもので、石室をもたない高塚古墳から出土した人骨とは考えられない。
この点からも、玄室は当初のお伊勢塚とは別個のものとみた方が自然である。このように、お伊勢塚古墳については玄室の有無や伴出遺物などの実態の不明な点が多いが、その成立年代はおおむね古墳時代終末期に位置付けて大過ないであろう。
志村古墳群の発掘は、三例のみで具体的な性格は明らかでない。志村熊野神社社殿下の古墳からは、安政年間に経塚の発掘が報告され、古墳以外の用途も考えられている。近年の発掘によっても、この地域からの古墳の発見がなく、北区赤羽台遺跡の古墳群から遊離した小規模な古墳群に含められるものと考えられる。(小西雅徳)
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2021 12/27 『上野恩賜公園 摺鉢山古墳』

上野恩賜公園、地図の黒丸部分のグラウンドの隣りに摺鉢山古墳が現存している。

案内板から引用ーーーーーーーーーーー
摺鉢山古墳
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。
ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約千五百年前の前方後円形式の古墳と考えられている。
現存長七十m、後円部径四十三m、前方部幅は最大部で二十三m。後円部の道路との比高は五mである。
丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。
五條天神の創立年代は不明であるが、堯恵法師は、『北国紀行』のなかで、文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、

契りきて たれかは春の
初草に 忍びの岡の 露の下萌

とうたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。
清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(一六八八〜一七〇三)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。
現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。
平成六年三月
台東区教育委員会
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武蔵野台地の突端部、際に築造されていて、かつては大変眺望が良かったことだろう。
この古墳以外にも周囲には、桜雲台古墳・蛇塚古墳・表慶館古墳などが分布していたそうだが現存はしていない。(遺跡地図の赤丸)
この摺鉢山古墳は史跡指定はされていないそうだが、発掘調査が行われば指定されるのではないだろうか。

武蔵野台地、北区赤羽からこの上野にかけていくつも古墳が分布している。

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■復活 上野清水観音 堂月の松
■上野東照宮

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2021 12/21 『金王八幡宮 <澁谷城 砦の石>渋谷川支流 黒鍬谷の湧水』

地図の黒丸部分に金王八幡宮があり、境内に<澁谷城 砦の石>が保存されている。

案内板よりーーーーーーーーーーーーーーーー
<澁谷城 砦の石>

この辺り一帯の高台は、平安時代末期から澁谷氏一族の居館の跡で、東に鎌倉街道(現 八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数箇所に湧水があるという好条件を備えていました。
しかし、その館いわゆる澁谷城は大永四年(一五二四)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦(現 品川区高輪付近)のとき、澁谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。
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だいぶ前のブラタモリで、金王八幡宮が出た際にもこの<澁谷城 砦の石>が紹介されて、湧水についても触れていた。雨が続くと水の流れが現れると言っていた。写真上から1枚目・3枚目、参道の石段の下にこの湧水の流れがあったそうで、石橋が架けられていたそうだが、現在は撤去され、手水舎の前に移設されている。
写真上から2枚目、鎌倉街道方向に続いている参道だが、高低差が結構あり、突端のように地形になっているのが分かる。

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2021 12/17 『穩田川(渋谷川) 表参道に残る参道橋の親柱』

地図の赤丸部分、原宿にあるキャットストリートと名付けられた道は、言わずもがな暗渠となった穩田川跡で、表参道には参道橋の親柱が残されている。
キャットストリートがかつて川だったことを知らない人も多いかもしれない。こんな都会に川が?という子も多いだろうか。
表参道を渡り、渋谷方面に進むとこの界隈の住民や飲食店にとっては馴染み深い老舗の青果店が営業されている。30年くらい前はまだまだ商店がいくつもあったが、今はアパレルなどのお店に置き換わった。しかし、キャットストリート沿いには今も住宅がいくつも現存しているが、相続の問題で商業施設や集合住宅に変わっていっているのだろう。

地図のキャットストリートの1本左にある道はこれもいわずもがな有名なストリートで、ネイバーフッドやエイプなどがあることで有名だが、一番はプロペラという洋服屋があったことだろう。まぁよく通ったお店だが、もう何年も前に撤退し、時代の流れだなと寂しい思いもした。
プロペラで買った洋服は今でも衣装ケースに入っていて、普通に今も着ている。
25年くらい前、このストリート沿いの元悪役商会跡の店舗で、友がお店をやっていて、サインや内装などやらせてもらった。その当時は雑貨屋だったかな、八百屋だったかな、忘れたけど商店がいくつか残っていた。その中でもお米屋が経営していた久保田米店の定食屋がこの界隈のお店の人々お腹を満たしていた。生姜の辛さがたまらない生姜焼き定食が秀逸だった。

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2021 12/15 『水窪川跡沿いにある家屋 日出優良商店会 <ミート&デリカ なりたや>の黒毛和牛入り一個五十円のメンチカツ』

今は無き東急ハンズ近くにある飲食店街<美久仁小路>付近を源泉とした水窪川は、悲しい交通事故が起きた現場のすぐそばをとおり、東池袋の密集した住宅街を流れて、神田川に注いでいた。
写真一枚目、家屋の前にかつて水窪川が流れていた。今から6年くらい前、この時はまだこの場所には再開発の手がおよんでいなかったが、今はどうだろうか。
その下の写真、水窪川の近くには商店が集り、日出優良商店会が出来た。
その商店の中に精肉店があり、土曜日は名物のメンチカツがひとつ50円という驚きの価格で提供していた。
若い男性がお惣菜を買っていて、お店の女性に「今日は何にします?」という会話が聞えてきて、素敵な雰囲気だった。

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