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2022 6/7 『王子七滝 王子稲荷神社 消滅した稲荷の滝の今 <本郷台中腹 湧水点上部 “後ろ姿”>』

北区王子付近にはかつて王子七滝と呼ばれた滝があった。
七滝とは、名主の滝・稲荷の滝・辨天の滝・不動の滝・権現の滝・見晴の滝・大工の滝で、現存するのは名主の滝のみとなっている。
いわゆる『王子七滝』は『東京名所図会』の内容をアピールするための手段だと、『王子七滝考』では書かれている。
7つ以外の滝にも触れており、また古地図などからも引用して地図に記載してみたら、15の滝があったことが分った。
1:権現の滝
2:王子大堰(王子大滝)
3:不動の滝
4:弁天の滝(辨天の滝)
5:稲荷の滝
6:名主の滝
7:見晴の滝
8:飴屋の滝
9:山本家の滝
10:大工の滝
11:醸造試験所の滝
12:湯滝
13:水滝(木滝)
14:桶勘の滝
15:末広の滝(扇屋の滝)
12『湯滝』と13『水滝(木滝)』は絵図に描かれているために正確な場所は不明(石神井川の流れに合わせるとこの付近)。
11『醸造試験所の滝』と14『桶勘の滝』は推定の位置で、11の醸造試験所の滝はかつての石神井川の名残である逆川沿いとも考えられるが、石神井川(音無川)沿いに落ちていた方が自然だと思う。
『見晴の滝』と『山本家の滝』は水量があったようだ。
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地図の5番が王子稲荷の滝がかつてあった王子稲荷神社。
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“古写真はわたしたちに何を伝えるのか”展より引用(上から4−5枚目)
王子七滝の一つ、稲荷の滝を写した一枚。
近世以来、垢離場の滝として著名であった。
撮影年代の明治初期に近い浮世絵作品でこの滝を描いたものに、「俳優英雄王子の瀧催(豊原国周 元治元年(1864))がある。
当時、若手に属する役者たちを紹介する作品であるが、王子稲荷社の石段下にあった水垢離場の姿が描かれ、稲荷信仰の一端を示している。
写真でも、この浮世絵と同じ位置に狐像が配されていることが確認される。
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鳥居に向かって左側に幼稚園の建物があるが、ここにかつて王子稲荷の滝があった。
階段を登っていくと台地の中腹に出られ、本殿や社務所があり、幼稚園の建物の最上階となっている。
写真上から2枚目の青丸部分に灯篭があり、写真下から1枚目の青丸部分の現在の灯篭が同じものだと思われ、参道から右へ幼稚園の建物へと分れて続く石敷、木と木の間あたりが滝の湧水の流路と重なるように思われる。ちょうど敷石の先から滝が流れ落ちていたのだろう。
鳥居と階段に向かって右側の崖からは今でも湧水があり、想像力を豊かにさせてみると、往時の姿を思い浮かべることが出来るだろう。

下から二枚目<名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火> 夜の帳が下り、神様に仕えている眷属の狐が集り、眼下の村を見つめている。ここからサーっと村へ降りていき、様々な活動をするのだろう。

一番下、明治21年(1888)頃 <武陽王子飛鳥山真景> 

【関連記事】
■王子七滝 消滅した王子 稲荷の滝後の“稲荷の崖線湧水”と王子稲荷裏古墳の狐穴(横穴墓)<十条台遺跡群>
■王子七滝 王子稲荷神社 狐石像が置かれた滝
■王子七滝 王子稲荷神社 稲荷の滝跡 いなり幼稚園

■王子稲荷神社 御石様
■王子稲荷神社 火防の凧(ひぶせのたこ)

■王子稲荷の坂 旧中山道と王子稲荷道の分岐にあった“王子大明神 常夜灯”(2020年8月29日写真追加)
■十条板橋道と王子稲荷道の追分に置かれた(仮称)稲付の関所跡と稲付川に架かる赤羽根火薬庫道の橋跡

■古写真はわたしたちに何を伝えるのか?(幕末維新期の王子・飛鳥山・滝野川)

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2022 6/4 『SHAFT SILVER WORKS ネックレスのメンテナンス(修理・磨き)』

肌身につけているシャフトシルバーワークス製のネックレスはもう20数年になる。
その間、ゴールドのロゴマークがついたトップ(大きめのヘッド)を追加したブレスレットもつけていたが、16年前、手荷物検査の時に外して、機内で紛失したことに気づいたがもう遅し。問い合わせても無く、身代わりとしてさやうならとしました。
たまにクロスで磨くんですが、先日気持ちよくふきふきしていたら、ベルのバーがとれてしまい、チェーンのオリジナルのフックも壊れていたので新規で付けてもらい、さらに磨きもしていただきました。
ピッカピカにあがってきて気分も上々。大事な面談や立ち会いもあり、その日までに間に合ったので心も気持ちがよかった。
写真二枚目、左から5周年記念ヘッド、結婚式引き出物のヘッド、Bell(S)、SCC-SV....ランニングをする時もそのままつけているので、気にならない重さだと自分はこのくらいまで。

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2022 6/2 『NIKE <Dri-FIT UV チャレンジャー ハイブリッド ランニングパンツ>と<GYAKUSOU GIRA[NIKE×UNDERCOVER]>』

先月、ナイキのサイトで50周年記念のセールをやってて、さらに対象商品は30%OFFというえらい安く提供していたので、ランニングパンツを2枚ポチり。気に入ったものは2枚買いをよくする。
定価¥9000くらいのが¥3000/枚となったのでとてもお買い得....膝下はタイツになっていて、その上は切り返しになってて異素材のゆったりとしたランニングパンツになっている2個イチ製品。ウイメンズやシリアスランナーだとタイツ一丁スタイルで走っている人も多いけど、<普通の走るひと>はモッ◯リのタイツ一丁スタイルはなかなかキモいようなビジュアルになると言われているし、そう自分も思う。レースとかだったら逆に一丁スタイルなどが良いんだろうけど。
で、このハイブリッドパンツがとても具合が良くて。しかも、腰にスマホが入る程の大きめのポッケがあって、さらに、前両サイドに銀行の現金を入れる封筒が縦に入る大きなポッケがあるので、ファンランやエクササイズランのようにカジュアルに走るひとにはこれがとても便利かと思う。
家着や近所ウロウロ着にも良いのではと思う製品。
あとGYAKUSOUのTもついでに....これは半額よりちょい安く。

まぁこれに関わらず、欲しい製品があってもタイミングやあちこち見回っているとかなり安く買えたりするので、定価で買うことはあまりないですかね。そういう人が多いと思うので、定価ってなんだろうかと思うことが多々ある。

あれもこれも値上げ々に続きさらに値上げ々で、一層購買意欲がそがれる状況になってきていますね。。
目抜き通りや一等地でも撤退が続き、その後もテナント入居とはならない物件もとても多く目にする。巣鴨の赤パンツで有名なマルジもメンズ館がもうすぐ撤退で、この数年でマルジ2店舗撤退という状況。4のつく縁日の日も以前と比べると人出が少ないのも影響しているのだろうか。
ウイルスまん延、戦争に絡む様々な問題、この先まだ大変なことが起ることになるのだろうか。

気持ちが良くなるウエアを着て、あまりお金がかからないランニングって心身共にあれこれとても良いものなんですよね。

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2022 6/1 『旧中山道 大正大学構内 日本農業を支えた種子屋街道 <中山道の種子屋[滝野川三軒家の一つ榎本家 屋号“枡屋”]>と<江戸東京野菜> <江戸・東京の農業 滝野川ニンジンとゴボウ>』

地図の茶色丸部分、新中山道(国道17号線)沿いの滝野川西区民センター(ふれあい館)に<江戸・東京の農業 滝野川ニンジンとゴボウ>の説明板がある。

江戸・東京の農業 滝野川ニンジンとゴボウより引用ーーーーーー
この地域は深い黒土に覆われているため、長い根のゴボウ・ニンジンの生育に適していました。「北区の風土記」に「滝野川の地域は、武蔵野台地の一部で、水田が乏しく、畑地ばかりなので、米の代わりに野菜をつくって江戸に出荷していた。」とあり、とくに、ニンジンとゴボウは篤農家の努力で優秀な品種が作られ、江戸の人々に歓迎されました。
滝野川ニンジンは他のニンジンに比べて収穫時期が遅く根が長い品種で、長さは1メートルにも及びました。濃い赤紅色で、香りが強く肉質がしまっているのが特色で、関西の「金時ニンジン」と並んで関東地方では、享保年間(1716〜36)から昭和20年頃まで、約200年間にわたり栽培されました。
また、滝野川ゴボウは、元禄年間(1688〜1704)に北豊島郡滝野川の鈴木源吾によって栽培が始まり、根の長さが1メールもある大長ゴボウで品質が良く人気がありました。

平成9年度JA東京グルーブ
農業協同組合法施行五十周年記念事業
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上記の通り、台地の上のこの地域は主に根菜類の生育に適していたようですね。
一方、志村の坂の下の徳丸が原は荒川の氾濫源として下町を守り、高島秋帆による砲術の演習を行ったり、その後お米を作っていた東京の米どころだったが、汚染により田畑は消滅し、宅地開発により高島平がつくられた。

地図の黒丸部分、旧中山道と明治通りの交差点<掘割>近くには大正大学があり、誰でも休憩することができる休憩所兼案内所があり、旧中山道は種子屋街道と呼ばれていたことや日本農業の歴史を伝えている。地域史に明るい人にはよく知られたことだが、近年はこの<種子屋街道>についての宣伝に力を入れている。

日本農業を支えた種子屋街道より引用ーーーーーーーー
大正大学南門の前を走る道路は、江戸時代初期に建設された中山道です。日本橋から約6kmに位置するこの地域は、江戸への野菜の供給地として知られていました。江戸時代半ば以降、庚申塚から板橋宿へと続くこの街道沿いに、野菜の種子を通行人等に販売する種子屋(たねや)が店を構えるようになります。
近代に入り、農業生産が飛躍的に高まると、種子屋は経営規模を拡大していきます。また交通・通信機関を利用して、国内外から良質な種子を仕入れて広く販売する卸売業者へと成長します。
やがて西巣鴨・滝野川には日本有数の種子屋が軒を連ね、「種子屋通り」と呼ばれるようになりました。
このように、中山道の種子屋は日本農業の発展を下支えしていました。
2022年3月
大正大学
協力:豊島区立郷土資料館
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中山道の種子屋より引用ーーーーーーーーーーーー
種子屋とは、農作物の種子を生産し、販売する商店のことです。江戸時代の半ば以降、この地域に種子屋が集るようになります。当初は、農家が付近の畑で採種した野菜の種子を通行人等に販売していましたが、やがて品種改良や品質管理に優れた技術を持つ農業指導者たちが専門の種子販売業を始めるようになりました。
明治・大正期には、種子屋は郊外の農家に採種を委託して経営規模を拡大する一方、鉄道や郵便などを駆使して、全国各地から優良な種子を集め販売する卸売業者となります。大正5(1916)年には、中山道の種子屋が中心となって東京種子同業組合が発足し、江戸東京野菜のブランド化を図り、商品の信頼性を高めました。
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江戸東京野菜より引用ーーーーーーーーーーーーー
江戸の北郊にあたる豊島郡(後の北豊島郡)では、それぞれの土地条件にあった個性的な野菜が生産されていました。武蔵野台地の東端では根菜類・果菜類が、荒川沿岸の低湿地では葉茎菜類が盛んに栽培され、江戸の台所を支えていました。
江戸時代の中頃になると、練馬大根・滝野川人参・滝野川牛蒡などが、この地域の特産品として好評を博すようになります。
明治・大正時代になると、北豊島郡の野菜の生産量・品目は拡大し、東京の近郊農村地帯となります。また中山道の滝野川付近は、良質な種子を集めて日本全国へ販売する種子屋が集る街として知られました。昭和期に入り、近隣の市街地化などにより、江戸・東京の伝統野菜は姿を消していきます。しかし平成以降、これらを地域のブランドとして復活させる試みが続けられています。

右の野菜細密画はすべて東京農林総合研究センター所蔵
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練馬蘿蔔(ネリマダイコン)|金町小蕪(カナマチコカブ)|滝野川人参(タキノガワニンジン)|滝野川牛蒡(タキノガワゴボウ)|三河島菜(ミカワジマナ)・豊島節成・枝成(トシマフシナリ・サスナリキュウリ)|早生・中生・晩生山茄子(ワセ・ナカテ・オクテヤマナス)

※明治30年頃の北豊島郡における農産物生産状況の拡大地図はこちら

色々な古来の野菜が新しい生産収穫しやすい野菜へととって変わられ、根絶やしになり二度と復活できない品種もあると思うが、復活へ向けて生産しはじめている野菜や、生産数は少ないが地道に生産している野菜もあるとのこと。
青首大根は根っこ部分が細いために引っこ抜く収穫時には労力が少ないという理由から、根っこ部分が太くなっている品種にとって替わり浸透して今に至ると聞いたことがある。
板橋の環八の外側付近(練馬区北町、板橋区若木・徳丸)から赤塚や練馬にかけて農地が少しずつ広がってきて、練馬大根をたくさん生産しているのをあちこちで見かけることが出来る。
また、江戸時代に板橋の清水村で作られていた<志村みの早生大根>の復活の取り組みも近年注目されている。

一番下の写真、掘割交差点から板橋駅の間の旧中山道から少し奥に建っている建物は、榎本孫八家<枡屋>で滝野川三軒家の一つで名家。旧中山道から少し奥に建っていて、昔の写真を見ると手前が旧中山道なので、かつては今よりも幅員が広かったのだろうか、もしくは曵家で移動させたのだろうか。それとも建物の前は荷解きのための広い庭でその先(写真の写っていない手前の先)に旧中山道が通っているのだろうか.....検索したら、廃業後に曵家したとのこと。via
鉄筋コンクリート造や鉄骨造の集合住宅ばかりにおき替わってしまったが、街道沿いをよく見てみると今でも昔の面影を見つけることができる。

【関連記事】
■旧中山道はタネ屋(種屋・種子屋 種苗)街道
■旧中山道<種子屋街道のあゆみ 滝野川三軒家の町並み 日本農林社のあゆみ>
■雑司が谷 大鳥神社 <江戸・東京の農業 雑司ヶ谷ナス[山茄子]>と<旧中山道はタネ屋(種屋・種子屋 種苗)街道>
■板橋区 赤塚不動の滝と大根
■五代将軍 徳川綱吉御殿跡之碑(練馬区北町1-14 北町小学校と田柄川の間) 脚気に効くと言われた練馬大根栽培・発祥の地と環状八号線の開通
■北区滝野川 三軒家 御代の台仲通り商店街の出桁造り
■王子稲荷の坂 旧中山道と王子稲荷道の分岐にあった“王子大明神 常夜灯”(2020年8月29日写真追加)
■中山道 平尾一里塚(板橋一里塚) 一里塚まんじゅうと史跡

■巣鴨遺跡 町屋跡
■巣鴨庚申塚 巣鴨遺跡
■巣鴨薬園跡 <豊島市場>

■旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)

■板橋区清水町 名もなき野川 旧中山道に架かっていた岩道橋(龕灯橋・ガンドウ橋)

■分水嶺、千川上水調節池跡
■豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑 千川上水の放流(谷端川下水道幹線)
■北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)

■豊島区西巣鴨 旧中山道沿い かつてあったパチンコ天国

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