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2021 10/12 『東光寺 平尾一里塚上に造立された石造地蔵菩薩坐像』

一番上の地図と写真上から2−3枚目の黒丸部分、旧中山道沿いにかつて平尾一里塚(平尾宿入口)が道をはさんで対にあり、その塚の上に写真の石造地蔵菩薩坐像が造立されたという。
塚の上にこの大きな地蔵菩薩があったのだから、さぞかし迫力のある一里塚だったことだろう。

<東光寺石造地蔵菩薩坐像及び台座>より引用ーーーー
この地蔵は、享保4年(1719)に沙門観堂と称誉観霊の二人が願主となり、東光寺十四世住職豊誉人が導師となって造立されたもので、総高が285cmを超える区内最大の石造仏です。
須弥壇の正面には観堂作の漢詩が、右面には同じく観霊が奉納した経典名が、左面には導師豊誉上人の名が刻まれています。また、礎石部分には寄進者として、豊田次郎右衛門や伊勢屋九兵衛などの板橋宿の住人や、田村三右衛門などの加賀藩下屋敷の関係者、滝野川の山田久七や王子村の宇右衛門など周辺に住む人の名があり、多様な身分階層の人々が亡くなった家族の後生を祈るために造立したことがわかります。
なお、『板橋町誌』(大正13年発行)には、本地蔵が、観霊によって享保4年に平尾の一里塚上(現、板橋一丁目54番辺り)に造立されたものが、明治10年(1877)8月に塚の取り壊しとともに当寺に移されたと記されています。この時は、現在の本堂に向って右手の墓地の辺りに安置されましたが、戦後になって区画整理等により境内が整理された際に現在の場所に移されました。
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一番下、国道17号線沿いに現存する志村一里塚に地蔵菩薩坐像を簡単に敷地合成をして。平尾の一里塚の高さが分からないが、このようなスケールだったように思われる。
上から3枚目、黒丸部分の前の道が裏御門通りと言われている。

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2021 10/8 『東光寺 加賀藩下屋敷跡 宇喜多秀家の子孫が供養の為に建立した秀家の墓(移設された供養塔) 宇喜多秀家とその一族』

上から2枚目の地図の青丸部分、旧中山道沿新中山道が重複している場所に東光寺がある。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーーーーーー
東光寺

御本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土宗
丹船山薬王樹院

創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳三年(一四九一)に入寂した天誉和尚が開山したと言われています。
当初は、船山(現、板橋三ー四二)あたりにありましたが、延宝七年(一六七九)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようです。
しかし、明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。
なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。
境内には、昭和五八年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文二年(一六六二)の庚申塔と平成七年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養の為に建立した宇喜多秀家の墓などがあります。
平成九年三月 板橋区教育委員会
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東光寺には、上記のとおり明治維新の恩赦により出島が許された宇喜多秀家の子孫が、この地加賀藩下屋敷跡地を生計の道として与えられた。
宇喜多秀家の供養塔(墓)を下屋敷跡地の一角、一番上の加賀藩下屋敷絵図と地図の赤く囲った部分の御表御門通のすぐ横の黒い丸部分に建立し供養したという。(いたばし風土記より)御殿跡のすぐ近くになる。
区画整理によって、現在は供養塔は青丸部分の東光寺に移設され保存されている。

<封じ込められた宇喜多秀家とその一族> 浮田 丈男 著より一部引用ーーーーーーーー
宇喜多秀家の子孫:孫九郎(秀高)と次男のその2歳下の息子は関ヶ原で負けたことを知り
岡山から、家臣が2歳の男の子を豊前国宇佐郡(大分県宇佐市)まで逃げて、そこで育てられました。
しばらくして(秀家が亡命先の薩摩で助命が許されたあとでしょうか)、地元の明円寺のお世話で、熊本の細川家に仕官しようとしたが断られた。
15歳で、土木作業員の「黒鍬」(武士ではない)として、名字もなく、ただの「太兵衛」として採用された。
その後、名字をつけていいと言われたが、さすがに「宇喜多」はまずいと「栗田」を名乗った。
その子(秀家の孫)は百姓となって肥後国玉名郡長州村(熊本県北部)で農家をしていたが、また没落。
さらに子孫が熊本へ出て、とうとう細川家の長柄(槍)足軽になり、殿様のタバコ係になって、ようやく「武士」に戻れた。
武士になれたのは、関ヶ原から100年以上たってから。
この「栗田」さんが、「浮田(うきた)」の名字を取り戻したのは、明治3年11月だったそうです。

明治3年、20家のうち浮田7家が八丈島から離れ、宇喜多秀家の妻 豪姫(加賀藩前田家)の実家前田家を頼って、板橋加賀藩下屋敷に移り住んだ。
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関ヶ原の戦いで敗れて敗走した際に山中で村人に助けられた秀家、その村人の子孫と宇喜多家の子孫は今でも交流が続いているとこの本に書かれている。
自分の出生地は大分県宇佐市(USA)で、上記の秀家の子孫(2歳の男の子)が育てられた町と同じ。
上から2枚目の中山道板橋宿跡絵図、東光寺の隣に妓楼『千代間楼』が描かれていて、現在はガストになっていて、平尾交番の隣に妓楼『新伊勢元楼』も描かれていて、こちらは有名なお弁当屋さんの『つるや』あたりになる。
■弁当 つるや <美学> のり唐揚弁当....普通でも一合くらい白飯が入っているような気がするので、自分は加齢により一食分としては食べきれない。

ところで、昨晩都内では震度5弱〜強という激しい揺れに襲われた。
自分のところ(低地ではなく台地上)は震度4表示だったけど、棚に置いてあった瓶やフォトフレームなどが飛び出して落ちてきたし、体感では震度4ではないような揺れだった。夜?朝?3時過ぎに起きて飯の準備をしようとしたら、ガスは止まっていたので震度5弱はあったのではないだろうかと思う。嫌なアラームと揺れ、家族は手が振るえてしばらくおさまらなかった。
今後も十分に注意したいところですね。皆様もお気をつけください。
よく走れる、よく歩ける脚を持っていたら、電車が止まっても都内の移動だったら大変に困ることもないかと思うので、日頃の運動はこういう時にとても大切だなと感じる。

2021年10月11日加筆
<宇喜多秀家供養塔>より引用ーーーーーーーーー
板橋区登録有形文化財(歴史資料) 平成11年3月10日登録
宇喜多秀家は、備前岡山の大名で、豊臣秀吉の信任が篤く、五大老にも任命されました。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、西軍の大将として東軍と戦いましたが、敗れて八丈島へ流罪となり、罪を許されることなく明暦元年(1655)に83歳で亡くなりました。
明治5年(1872)11月、明治政府から罪を許された秀家の子孫は、秀家の妻が前田利家の娘であった縁により、前田家から約2万坪の土地と当面の生活費を与えられて、旧加賀藩下屋敷跡に入植しました。秀家の供養塔は、この時に建立されたと考えられます。
当初は、現在の板橋四丁目1番あたりに祀られていましたが、その後場所を点々と変え、昭和33年に一族の菩提寺である東光寺の境内に移設されました。
供養塔は小松石製で、「秀家卿」の文字が隷書(れいしょ)で彫られていることや、両脇の梵字が本式の薬研彫(やげんぼり)で彫られているなど、腕の良い職人によって造られたことがうかがえます。
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2022年2月25日加筆
平成26年12月13日発行「広報いたばしより引用ーー
宇喜多秀家は、豊臣秀吉の五大老の一人として知られています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成に加勢し、敗戦後は薩摩島津氏の下で3年蟄居(ちっきょ)していましたが、島津氏の助命嘆願で死罪を免れ、慶長11年に八丈島へ流罪となりました。
加賀金沢藩前田家は、藩祖・利家の娘・豪が宇喜多秀家の室(妻)だった関係で、八丈島の秀家の子孫に対し、江戸時代を通じて米70石や衣類・金銭などを送って援助しています。
明治2年(1869年)2月、新政府は宇喜多家の流罪を免じ、「旧来由緒」を理由に金沢藩に宇喜多孫九郎一族の扶助を命じました。翌年には宇喜多家(浮田家)子孫の8家75人が八丈島を離れ、金沢藩に身を寄せています。
浮田一族は、加賀出身の小松了従によって開墾が始まっていた旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸のうち2万坪の提供を受けて、この地に帰農することになりました。一族は平尾邸内の御殿跡に居を構え、現在の板橋四丁目1番地に宇喜多秀家の廟所(びょうしょ)を造りました。なお、一族の多くは生活環境の変化になじめずに八丈島に帰島しています。
廟所に築かれた宇喜多秀家供養塔は、幾度かの移転を経て、現在は板橋四丁目の東光寺境内に設置され、宇喜多同族会によって 祀 られています。この塔は前田家・浮田家の歴史と、両家の板橋区との関わりを物語る貴重な資料で、平成10年度に区の登録有形文化財となりました。
【学芸員 吉田政博】via
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2021 10/6 『加賀藩江戸下屋敷 御表御門道(旧中山道入口)と宇喜多一族 小字(下板橋)浮田』

加賀藩江戸下屋敷絵図や地図の赤く囲った部分が加賀藩下屋敷の表玄関(表出入口)にあたる表御門の道で現存している。
微妙に広い幅員であるのが特徴で、御表御門道沿いに東京法務局板橋出張所がある。
復元・江戸情報地図では、現下板橋通りが御表御門道と重なっているが、実際の道は一本江戸側で写真の道となる。
写真下から2枚目、御表御門道と旧中山道との交差点に<じんや>(陣屋)という飲食店があるがこれは下屋敷や御表御門道を意識したのであろう。
現在のこの道には特に説明板などはないが少しもったいないような気もするがどうだろうか。
またJR板橋駅の旧中山道の踏切を渡ってすぐのところに、裏御門通も現存していて、ここにあったとされる裏御門が観明寺に移設され山門となっていて、境内にある稲荷社は加賀藩下屋敷から移されたものとも言われている。

※加賀藩江戸下屋敷の拡大写真はこちら(1264×936 低解像度 1MB)
庭園には石神井川が流れ、水車が回り、引水した大池にいくつもの山(小さな丘)があり、現在も残っていたら、大大名らしい大変見事な庭園だっただろう。

いたばしの地名より引用ーーーーーーーーー
浮田(一、四丁目)郡 板橋町大字下板橋小字・・・
備前岡山五七万石の大名宇喜多秀家は慶長五(一六〇〇)年、関ヶ原の戦には大阪方の総師として徳川方と戦い敗れて捕えられ慶長十一年八丈島への第一号の流人として一族十三人が島流しになりました。
徳川幕府存続中は帰還を許されませんでした。
明治三年八月、維新の恩赦により出島が許され、秀家の妻の実家である加賀前田家へ遺族八家七十一人が引き渡されました。
一行は前田家の藩士である小松了従の差配下に、板橋の下屋敷跡地二万坪乃至三万坪を生計の道として農耕のため開墾することになりました。
宇喜多一族に下賜された土地を読みの同じ「浮田」に替え地名としたものです。
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上から2−3枚目の地図、宇喜多一族の一部はこの板橋にあった加賀藩下屋敷跡に移り、今でもおそらく子孫と思われる方が居住している。
上から6枚目、<いたばしの地名>より引用した北豊島郡時代の小字、緑色で囲った部分はかつては浮田と呼ばれていた地域で、御代の台(みよのだい)とも呼ばれた台地で、国道17号線(新中山道)の北側は高低差のある高い崖となっていて、見空が大きく晴らしが大変良い場所。下屋敷の御殿は御表御門を入った右側(東側)にあったことや上記のことから、この地域を浮田と呼んでいたのだろう。宿場の外れ、御代の台の崖など、防衛上有利だったことも御殿が東側にあった理由なのではないだろうか。
加賀藩下屋敷跡は現在住宅地や自治体の施設・公園等になっていて、面影はほぼないが石神井川沿い、金沢橋隣りにある築山(大山)が当時の下屋敷にあったものとして知られている。
加賀藩江戸下屋敷絵図、大池の北にこの大山も描かれている。

※<『加賀藩江戸下屋敷』奥山正 著>にこの下屋敷について大変詳しく書かれている。

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2021 10/1 『北区滝野川3 滝野川古墳(都立王子総合高等学校敷地/旧王子工業高等学校跡地)』

地図黒丸部分、都立王子総合高等学校敷地にかつて滝野川古墳があったという。 
1936年の航空写真には古墳とみられるものが写っている。
また、すぐ北側には四本木古墳があり、武蔵野台地の崖際の飛鳥山や十条、赤羽台の古墳群など、古墳がたくさん集って築かれている。
権力を持った豪族がいたのだろう。
滝野川古墳は消滅してしまったようだが、直径7.5mの円墳で土師器・陶磁器が出土したという記録が残っている。

一方、従来低地には遺跡はあまり多くないと言われていたということから、武蔵野台地の下の王子や神谷付近の低地にも古墳が発見されたことが分かっているのもおもしろい。
北区では豊島8・王子5で見つかった豊島馬場遺跡(100基以上の古墳時代前期の方形周溝墓が確認され、日本最古のガラス小玉の鋳型が出土している)が、同じく低地である武蔵野台地の北側、板橋区新河岸三(板橋市場近く)の早瀬前遺跡が発見された時も大変注目されたという。
前者も後者も共に、近くに大きな川が流れていることが共通している。
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自分が通っていた学区は第4学区で、工業高校は北豊島工業か王子工業、商業高校は赤羽商業高校か池袋商業高校だった。
赤羽商業は昨年廃校となり、ずいぶん前に池袋商業高校は統合した後、跡地に東京国際フランス学園が設立された。
近年板橋駅周辺でフランス人の学生をとても多く見かけるのはこの学校移転のためである。
全然関係ないが、フランス学園裏の石神井川沿いを通りがかったら、学生に「こんにちは!」と挨拶と丁寧なおじぎをされたことが何回かある....未だに疑問なんだが。

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