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2021 2/26 『東十条駅 下十条運転区検修庫解体』

地図の東十条駅と赤く囲った部分に下十条運転区と検修庫があった。
運転士などが施設から出入りする姿を常に見られ、車庫に入線してきた京浜東北線も見られたスポットだった。(鉄道と鉄道職員が好きな親子の姿をたまに見かけていた)
だいぶ前だが、同級生が京浜東北線の車掌をしていて、出入口や駅のホームで待つ彼に出会ったりして、何かと懐かしい施設ゆえにこの解体工事は少し寂しく感じる。
自分には鉄道の運転士をしている友が3人もいるのが自慢だったりする。なぜなら、鉄道を趣味に持っていないけど、運転士さんってそんなに身近にいないと思うから。格好いいですよね、運転出来るって。

赤羽新聞だったかな、解体後の土地は土壌汚染の問題で何か他に転用するのはしばらく難しいようで。
廃線になった日本製紙の北王子駅は集合住宅になったが、このまた結構大きな土地はどうなるのだろうか、集合住宅か?.....集合住宅ばかりでそんなに必要があるのかどうか分からないが、歴史のある運転区だったことから鉄道に関連する施設になったらチビも喜ぶのではないかと思う。それも維持が難しいだろうか。

※2021年2月17日撮影

【関連記事】
■JR貨物北王子線と廃線跡
■JR貨物北王子線と廃線跡と映像
■JR貨物北王子線の廃線跡 線路撤去工事

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2021 2/25 『JR貨物北王子線の廃線跡 線路撤去工事』

地図の薄い茶色の線がかつて走ってた北王子線で、もう何年も前に営業を終えて、駅があった土地はデベロッパーの手に渡り集合住宅が建設された。
その後も手つかずのまま放置されていた廃線跡の線路と踏切などの設備の解体撤去が始まった。

写真一枚目、JR王子駅から少し進んだ場所にある非電化区間の線路で、こういったのは都内でも珍しい部類に入るのではないかと思うが、鉄道を趣味に持っていないので間違っているかもしれないが。

この先の写真は2枚目以降となり、振り向いて撮っているが、北上している順になっている。
踏切があった場所に敷かれている線路は撤去されていなかったが、このままの状態にしておくのだろうか...二輪車にとってはマンホールの蓋しかり、線路が濡れているととても滑るので危ないものでもある。
飛鳥山、明治通りの都電との併用軌道の線路を横切る時、とにかく危ないのです。転けずとも何回もツルっとしたことだろうか。オフ車のブロックタイヤなど一番危ない。

話が反れたが、都内にはほぼ?無いであろう廃線跡(豊洲の方にあったかな)は珍しいし、製紙産業を支えた貨物線の功績を讃え、新しく建設した集合住宅の敷地には線路や線路のオブジェがある。
この区間は、先に廃線になった区間、地図の黒四角部分(地図の一番下)のように公園に転用されるのだろうか。それとも道路として整備されるのだろうか。
※先に廃線になった線路は、豊島五丁目団地(かつて日産の工場だった)へとつながっていた。何年も前だが、団地敷地から毒性の強い物質が検知され、しばらく土地を養生していたのは、かつて工場があったことによると。豊洲市場の土地もしかり。

たまに遭遇する貨物列車、見かけると何だか得したような気になったのも懐かしい。

※2021年2月17日撮影

【関連記事】
■JR貨物北王子線と廃線跡
■JR貨物北王子線と廃線跡と映像
■JR貨物北王子線の廃線跡 線路撤去工事
■東十条駅 下十条運転区検修庫解体

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2021 2/22 『石神井川 田柄川用水とも呼ばれた安養院境内に残る “あげ堀” 跡』

地図の薄い水色の線が石神井川で、濃い水色の線があげ堀という用水路だった。
あげ堀は役目を終えて、道に転用されたが、板橋区東新町にある安養寺の境内に一部が保存されて残っている。
かつての水の流れや景色を感じることができる貴重な遺構だろう。
川越街道や東武東上線を越えたあげ堀は根村(板橋区双葉町)からは根村用水として稲付(北区神谷や赤羽付近)の農地で利用された。

あげ堀という名の由来は、石神井川から水を揚げて用水として利用したためだと言われている。また、田柄川からも取水したことから田柄川用水とも呼ばれた。
この周辺だと、エンガ堀も同じく重要な用水として利用されていたことが知られていて、石神井川に落ちる部分には大きな合流口が今でも見ることができる。

※安養寺にあるあげ堀の映像はこちら(mp4、98.8MB、720×1280)

【関連記事】
■板橋区東新町 安養院 仏教美術展
■石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所

■稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
■姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水(稲付川や中用水、北耕地川とも言われる)
■旧中山道“岩の坂”の縁切榎ほとりを流れる稲付川(中用水)と“なみだ橋”
■北区十条仲原 稲付川に下る游鯉園の坂
■北区十条仲原 稲付川に架かっていた游鯉園橋
■稲付川(根村用水・中用水・北耕地川) 水車の坂
■稲付川(根村用水・中用水・北耕地川)が流れる深い谷底
■王子 上郷用水(石神井用水) 三本杉橋の親柱
■十条板橋道と王子稲荷道の追分に置かれた(仮称)稲付の関所跡と稲付川に架かる赤羽根火薬庫道の橋跡
■北区上十条 姥ヶ橋の延命地蔵尊に添えてある小さな角柱型文字庚申塔道標
■徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 松平定信奉納の扁額と根村用水
■板橋区大和町 日曜寺に架かる根村用水の橋(親柱・欄干)と平尾町内中の石柱(平尾宿)

■北区岸町 上郷用水(石神井用水)に架かる岩槻街道の三本杉橋下から出土した縄文時代の丸木舟と中里遺跡出土丸木舟

■板橋区 根ノ上遺跡

■田柄川の水源と茂呂遺跡
■田柄川 石神井川との合流地点
■石神井川 公開された茂呂遺跡(旧石器時代が日本に普遍的に広まっていたことを証明した遺跡・黒曜石製 茂呂型ナイフ形石器の発見)
■板橋区 栗原遺跡の竪穴住居跡と長嶋茂雄

■上板橋宿と大山福地蔵尊
■町民を癒し見守る大山福地蔵尊
■豊敬稲荷神社 旧上板橋宿概要図
■上板橋宿にあるかつての“板橋”の親柱と距離の札
■板橋区弥生町 上板橋宿 豊敬稲荷神社の玉垣に刻まれた瀬戸川牧場

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2021 2/17 『“青天を衝け” 高島秋帆 松月院<高島秋帆先生紀功碑>と西洋砲術の演習地 徳丸ヶ原』

合成麻薬の摂取によって降板し、リスケとなった大河ドラマ....今回、主人公は幕臣だった渋沢栄一題材として一ヶ月遅れで先日始まった。
初回を見てとてもおもしろかった。
自分のもうひとつの地元である高島平の名の由来となった、高島秋帆も初回から登場してなんだかとても嬉しかった。
また、渋沢栄一の子役もすばらしい演技だった....北区も渋沢栄一関連niとても力を入れているので、諸施設を見学するのも良いですね。

地図の緑色で囲った場所がかつては徳丸ヶ原と呼ばれていて、将軍家の鷹狩りの場(鷹場 戸田筋)でもあった。
明治以降、下町を洪水から守る為に、荒川の氾濫源として手つかずのままにしていたが、その後、東京の米どころとして田んぼになった。
しかし、台地に工場が林立し、汚水がこの徳丸田んぼに流れ込むようになり、また、人口増加に伴い徳丸ヶ原は新しい町へと開発をされた。
その時に名づけられたのが高島平で、これは長崎の洋式の砲術家としても活躍していた高島秋帆(たかしましゅうはん)が幕末に幕府に、これでは西洋に侵略されてしまうので洋式の砲術で日本を強化すべきだという建白書(意見書)を幕府に提出し、意見が通り演習をした場所がこの徳丸ヶ原だったことが由来。
本陣は台地の上の松月院に構え、地図の赤丸部分の弁天塚付近に陣を構えて演習を披露したという。勝海舟も見学に来たと。
その功績を讃え、松月院には陸軍の重役を中心として“高島秋帆先生紀功碑 ”が建てられ、平成二十六年に板橋区の登録文化財に指定された。(指定に時間がかかったのは理由があったという)
そのような歴史があるので、松月院(徳丸ヶ原)は日本陸軍発祥の地とも言われている。

案内板から引用ーーーーーーーー
松月院 萬吉山宝持寺 曹洞宗

延徳四(一四九二)年、千葉自胤(よりたね)はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑も建てられている。
また、天正十九(一五九一)年、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進したが、これにならって歴代将軍が下付した朱印状正本が寺宝として秘蔵されている。
天保十二(一八四一)年、長崎の人・高島秋帆は幕命により、徳丸ヶ原で洋式砲術の訓練を行つたが、その前夜、当寺を本陣とした縁故で遺品類が保存され、顕彰碑も建てられている。
平成四年三月
板橋区教育委員会
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案内板から引用ーーーーーーーー
高島秋帆先生紀功碑

この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院 に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆 を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。
高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術 を学んだ。
天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争 が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。
天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟一〇〇名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。
嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。
慶応二年正月江戸小早川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍 創設者の一人として名高い。
紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。
平成二十六年度区登録文化財
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ドラマでは高島秋帆が捕らえられて幽閉されたシーンで終わったが、役者が有名な方ゆえに、今後この高島秋帆が釈放され、演習を行なうシーンも登場するのではないか。
幽閉されたのは、幕臣の鳥居耀蔵が高島秋帆を気にくわなかったためだと言われている。末恐ろしい男の嫉妬というものだろうか。

昭和30年代には本当に何も無かっただだっ広い原っぱだった徳丸ヶ原は、一気に新しい町へと変貌したが、今では想像もつかないことだろう。
自分にとっては11歳の頃に移り住み、よく見えた富士山とスケートボードと仲間、一部の先生、花火以外はほとんど楽しい思い出はないが、ホームグラウンドとしてあふれる郷土愛を今でも大切にしている。

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■縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
■北区西ヶ原 西ヶ原遺跡(西ヶ原<西ケ原>貝塚)
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■旧松澤家住宅 附 倉屋 #2 徳丸ヶ原(西台、高島平)の思い出
■いたばし大交通展 人工地盤 西台アパート(西台団地) 富士山を望む
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■板橋区東山町 板橋城跡 赤塚城跡(築城主は千葉自胤)

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【過去記事】
■構成要素
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■オールドスクール #2
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■あぶないランプ
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■メイク
■思いでの撤去
■オールドスクール #3
■あぶないランプその2
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■JT -大切なひととき-
■スケートボード道
■スケート祓い
■28年前のクルーザー
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■やっと乗れてきた、サポートタイツ効果
■IXLオイルとガッツレーを流用
■クルーズにもいいデッキ
■中年スケーターのブルース
■もう一度
■#14
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■Zorlac Todd Prince 高い??
■梅雨の晴間の真夏日 5週間ぶりに
■UNIqueでスケートボードのレクチャーを
■スケートをする意味
■我ら徳丸ヶ原のスケートチーム
■また出会って、共に生きましょう
■自分のためにスケートを
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■GET RAD
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■久しぶりのお墓参り
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