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2021 9/27 『北区上中里 平塚神社(平塚城伝承地) 鎧塚古墳/甲冑塚古墳』

航空写真の黒丸部分、平塚神社境内の本殿の隣りの武蔵野台地の崖の際に甲冑塚古墳(鎧塚古墳)がある。※直径40m・高さ3.5mだという。
立ち入りは禁止されているので遠くから撮影。
甲冑塚の写真は<北区の歴史東京ふる里文庫22>より引用。

案内板より引用ーーーーー
平塚城伝承地
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義(ちかよし)という人物が平塚城という城館をつくります。
平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明10年(1478)1月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校(とうどうざけんぎょう)でもあった山川城官貞久(やまかわじょうかんさだひさ)は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
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甲冑塚古墳付近は豊島郡郡衙郡庁院跡で、かつては郡の中心だったところで、台地の下には国史跡中里貝塚があり、ずっと昔から繁栄してきた一等地だとわかる。
遺跡の保護から公開はされないだろうが、見てみたい古墳のうちのひとつ。
少し西の飛鳥山には鳥山1号墳もある。

下から2枚目、<江戸名所図会>より 社殿の左に甲冑塚古墳が描かれている。

2021年10月4日写真追加:下から1−2枚

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2021 9/23 『谷端川 西巣鴨1-2 洗い場跡<都立文京高等学校隣り 巣鴨新田停留所近く>と暗渠 谷端川沿い 巣鴨子供置き去り事件』

豊島区の湧き水をたずねてより引用ーーーーー
豊島区の湧き水と池(2) 北大塚2-28、西巣鴨1-2
谷端川流域には各所に清水が湧いていた。
北大塚2−28に湧き水があり、王電(現・都電荒川線)との間に洗い場があった。
また巣鴨新田停留所近くにも洗い場があった。
折戸通り(旧王子道)入口の石材店にはきれいな泉が湧き出て、通行人の喉を潤したという。
なお、北大塚2-14付近の川沿いに石造不動明王立像(滝不動)が祀られ、地元の信仰を集めていた(像は戦災に遭い、昭和30年頃再建)。
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地図の赤く囲ってある付近が豊島区西巣鴨1-2で、都電荒川線(東京さくらトラム)の巣鴨新田停留場(写真上から1〜3枚目)の向い(写真上から4枚目)にはかつて谷端川が流れていて、この付近に上記の洗い場があったという。現在ではその跡はない。
新田という名だから、新たに田畑を開墾して出来た農地で、水を引きやすい土地だったのだろう。それゆえに洗い場もつくられたのだろう。
これより下流の大塚駅前にも洗い場があり、また、これより上流の谷端川 上池袋支流(瓢箪池支流)にも洗い場があった。

この洗い場跡の近くに、是枝裕和監督、柳楽優弥・YOU主演の映画<誰も知らない>の題材となった巣鴨子供置き去り事件現場の集合住宅が今でも建っている。
自分が文京高校に通っていた頃に問題となり大きく取り上げられた事件だった。
いわゆる保護責任者遺棄、金銭的な援助等はしていたが実質ネグレクト状態だったという。
コンビニ弁当を主食としたジャンクフードで生活をしていた兄弟、そのうちのふたりが死亡し、ひとりは秩父の雑木林に埋められたという。
もう30年以上前の事件だが、今でもよく憶えている。
事件現場の目と鼻の先には巣鴨警察署の交番があるが、警察官は子供達の異変を感じることもなかったのだろう。日中にうろつく少年らには無関心だったのだろうか。職務とは何かを感じざるを得ない。
川沿いには人が集り、様々な料理屋をはじめとした各施設もでき、良い事も色々な事件もおきるが、これもそいう名残のようなことに感じてしまう。

いくつもあった谷端川の洗い場跡の写真はほぼ無いが、この<豊島区の湧き水をたずねて>には他の洗い場の貴重写真が掲載されている。

※地図の上の黒丸部分、鎌倉橋はかつてバス停にその名を残していたが、今は上池袋となっている。明治通りの横、少し湾曲している小道が鎌倉道。

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■渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道
■渋谷区猿楽町 重要文化財 旧朝倉家住宅
■旧鎌倉街道 中道編
■鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田
■鎌倉街道 中道 北区中十条
■豊島区立郷土資料館 新・旧鎌倉街道
■鎌倉街道 中道 並木橋
■板橋区赤塚 鎌倉古道

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2021 9/20 『板橋区立郷土資料館 連携協定記念展 <渋沢栄一 高島秋帆> 養育院の始まりと渋沢栄一』

養育院の始まりと渋沢栄一より引用ーーーーー

養育院は明治5年(1872)に明治維新の激動の中で家や家族、職を失い生活困難となった人々を一時的に収容する保護施設として加賀藩本郷邸の長屋跡(現在の東京大学周辺)に創設されました。
創設当初から一時的な応急措置として設けられていたこともあり、創設年には浅草へ、翌明治6年には上野の護国院へ移転し、入院できるルールを定めました。その後、神田、本所、大塚と移転し続けます。
この間に、東村山の全生病院、巣鴨分院と安房分院など、分院を開設し養育院が発展し、大正3年(1914)には板橋分院を開設します。
大正12年に関東大震災が発生し大塚の本院が壊滅したことで、本院を板橋へ移転することになります。
渋沢が養育院と関わりだしたのは、明治7年の所管が東京会議所時代のころに、東京会議所共有金取締として嘱託に就き養育院事務を管理したことがきっかけです。
この共有金取締の仕事は江戸時代のころから続く貧民救済などにあてられた七分積金の管理でした。
渋沢は明治9年に養育院事務長になり昭和6年(1931)の没する日まで実質的な院長となります(院長の名称は明治12年から使われます)。
養育院は明治10年代に廃止案が唱えられていました。というのも、困窮したのは自己責任であり、それを所管である東京府の予算で救うのは怠け者を増やすだけとの見方があり、東京府議会からも廃止を唱える声があったためです。
このような中で渋沢は、困窮するのは自己責任であるがそれを救う仕組みが社会に必要であることを訴え経営存続に尽力しました。
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大河ドラマ<青天を衝け>も残り十数話となった。
初回から欠かさず観ているが、幕末から明治維新、近現代へと時代が流れていくその内容、描写に毎回楽しくみている。
1万円の新札は渋沢栄一となり、人によってはダークホース的に「誰だ?この人」と思った方も多いかもしれない。
一方、徳川最後の将軍(第15代将軍) 徳川慶喜の姿を知らない人も結構多かったりする。
以前、TBS水曜日のダウンタウンで“徳川慶喜を生で見た事がある人まだギリこの世にいる説”という説があり、徳川慶喜の有名な写真を見た芸能人が「この写真見たことあるかなぁ」「これは分からんわなぁ」と言っていた。102歳以上の方に慶喜を生で見たか?をインタビューし、結果、ひとりだけいらっしゃった。明治43年(1910)105歳の女性(幼い頃に日本橋に住んでいた)で「日本橋の高島屋と白木屋の間くらい あの通りですよ 行列がお通りになるっていう時は 通るのをこっちはもうただの見物人で」行列を従えて歩く慶喜を見たという。「そうでしょうね 記憶に残っているのはね 自分は子供ですからね」と。
徳川慶喜研究の第一人者<齊藤洋一氏>が「良く撮れた これは本当に感動的ですよ」と。
明治45年、慶喜は日本橋に出向いたという記録も残っており、明治44年に架かった日本橋の文字の揮毫を徳川慶喜がしている。
女性は2歳位だったということになり、記憶力がとても良い方なのでしょう。
一番幼い時、古い時の記憶って2歳くらいだという人も多かったりするので、女性の記憶は正しいように思う。

さて、この企画展はどうしても観たかったのは自分が幼い頃大山に住んでいたこともあり、養育院の存在は大きなものであったし、家族ぐるみでとても仲良くしていた母の親友が勤めていたこともあって思い入れがある。「様々な人(弱者など)が居る施設」という認識だった。
また、大山にはいくつか母子寮(現 母子生活支援施設)が点在していたこともあり、大山は弱者に優しい町なんだな良い町なんだなと、幼いながらもそう思って生活をしていた。当時、風呂にろくすっぽ入れない同級生もたくさん居たし、裕福な家庭の子もたくさんいた。
当時(末期だろうか)の養育院の建物の模型も懐かしく拝見した。
今でも近くを通ったら、養育院跡で休憩することもあるんですよね。
(千川上水の管はこの辺りで逆勾配になって、清流事業復活、通水出来ないと判明したと記憶している)

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■“青天を衝け” 高島秋帆 松月院<高島秋帆先生紀功碑>と西洋砲術の演習地 徳丸ヶ原
■いたばし大交通展 人工地盤 西台アパート(西台団地) 富士山を望む
■高倉健 新幹線大爆破 志村検査場・交通局志村基地
■板橋区高島平 徳丸ヶ原 蓮根馬頭観音縁起
■板橋区高島平 六の橋のグラフィック

■巣鴨に住んでいた徳川慶喜 明治時代の巣鴨邸と江戸時代後期の巣鴨
■幕末を巡って 徳川慶喜巣鴨屋敷跡〜彰義隊の墓〜経王寺
■一橋徳川家 屋敷跡の千石緑地
■一橋徳川家 屋敷跡の徳川マンション
■徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 松平定信奉納の扁額と根村用水
■散歩JOG 谷中霊園の徳川慶喜墓・焼失した五重塔〜博物館動物園駅〜旧岩崎邸庭園〜加賀藩上屋敷跡
■身近なところに 太田道灌追慕の碑 山吹の里の碑 胸突坂
■文京区春日(小日向) 徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
■印刷博物館<武士と印刷> 徳川慶喜終焉の地(文京区春日(小日向))
■文京区春日二丁目(小石川小日向第六天町) 徳川慶喜邸と新坂(今井坂) “徳川おてんば姫” 井出久美子

■豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑 千川上水の放流(谷端川下水道幹線)
■石神井川 染井吉野の桜並木と谷端川下水道幹線<千川上水の放流(停止)>の吐口

■電話番号の表札 ◯◯方・◯◯◯◯◯呼出 ◯◯ 電報

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2021 9/17 『王子七滝 王子稲荷神社 稲荷の滝跡 いなり幼稚園』

北区王子付近にはかつて王子七滝と呼ばれた滝があった。
七滝とは、名主の滝・稲荷の滝・辨天の滝・不動の滝・権現の滝・見晴の滝・大工の滝で、現存するのは名主の滝のみとなっている。
いわゆる『王子七滝』は『東京名所図会』の内容をアピールするための手段だと、『王子七滝考』では書かれている。

7つ以外の滝にも触れており、また古地図などからも引用して地図に記載してみたら、15の滝があったことが分った。

1:権現の滝
2:王子大堰(王子大滝)
3:不動の滝
4:弁天の滝(辨天の滝)
5:稲荷の滝
6:名主の滝
7:見晴の滝
8:飴屋の滝
9:山本家の滝
10:大工の滝
11:醸造試験所の滝
12:湯滝
13:水滝(木滝)
14:桶勘の滝
15:末広の滝(扇屋の滝)

12『湯滝』と13『水滝(木滝)』は絵図に描かれているために正確な場所は不明(石神井川の流れに合わせるとこの付近)。
11『醸造試験所の滝』と14『桶勘の滝』は推定の位置で、11の醸造試験所の滝はかつての石神井川の名残である逆川沿いとも考えられるが、石神井川(音無川)沿いに落ちていた方が自然だと思う。

『見晴の滝』と『山本家の滝』は水量があったようだ。

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一番下:北区の歴史東京ふる里文庫22より引用

稲荷の滝はいつ頃消滅したのかは不明だが、昭和31年(1956年)までは存在していたことが分かる。比較的最近まで存在していたようですね。
現在は崖線沿いに塞いだように、いなり幼稚園の園舍が建っている。
緑色の階段を上がると、機械室だと思うが、その先と教室の間あたりに稲荷の滝があったことがわかる。
境内の階段の右側には今でも湧水があるが、稲荷の滝は水量が減り、染み出す程度になってしまい、時代の流れで水行(水垢離)から幼児の教育へと姿を変えたということだろう。
縄文時代から続く一等地で教育を受けられるのは素敵な環境ですね。

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■王子十五滝 現存するのは名主の滝のみ
■王子七滝 名主の滝公園の湧水 (2020年8月8日)
■王子七滝 名主の滝公園 <今様文覚上人の群れ?ー名主の瀧でグロな刺ヨ競べ>
■王子七滝 王子 権現の滝

■十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線
■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更)と補助83号線
■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更) その後7月・10月と“おふじ道”

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