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2020 6/30 『北区滝野川一丁目 千川上水 王子分水(鎌倉街道・千住道と一部重複)との三叉路にある庚申塔 王子七滝 松橋弁財天(岩屋弁天)への道標』

地図の赤丸部分、かつて流れていた千川上水の王子分水と古道との三叉路に庚申塔がある。(左側)
王子分水とは、幕末期に反射炉を計画し、水車の水力を利用した大砲製造(大砲の芯を削る)のために開削した用水路だった。
庚申塔の左側面には<武州豊嶋郡瀧野川村 江府駒込 石工 宇兵衛>と刻まれていて、右側面には年号などが刻まれている。
そして、正面の縁の左側には<是より左 弁天道>、右側は風化のために判読できないが、三叉路の先には、地図の黒丸部分に正受院、緑丸部分に王子神社(王子権現)があるので、おそらくどちらかの名が刻まれていて、道標となっているのだろう。
※ 2020.0827加筆 正面の縁の右側には<是より右 王子道>と刻まれていることがわかった。(“北区の古い道とみちしるべ”より)

かつては重要な道であり、今でも抜け道としての生活道路となっている。
かつて、今もだろうか、都立文京高校に通う豊島地域に住む学生には抜け道としてお馴染みの道路でもある。

地図2枚目、千川上水分配堰で分けられた王子分水は、明治通りと西巣鴨交差点の手前の左に分れる道(本街道はこの先、滝野川八幡神社とコープの間を北上し、青丸部分の金剛寺・板松橋弁財天洞窟跡を通りさらに北上し岩槻街道に合流する。【過去記事 板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>】)とその先のL字型に折れ東に向かう部分が鎌倉街道と重複する。ちょうど王子分水という囲み文字のあたり。
この道は旧鎌倉街道でもあるが、千住道とも呼ばれていて、岩槻街道(日光御成道、本郷通り)に出て、豊島氏の居城である平塚城前を通り、西日暮里駅北で武蔵野台地を下り、三河島・三ノ輪へと向かう。また、この道は鎌倉街道中道と下道との連絡道でもあった。

【過去記事】
分水嶺、千川上水調節池跡
豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑

石神井川 旧河道 音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
石神井川 金剛寺にある板松橋弁財天洞窟への道標と音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
石神井川 正受院 不動の滝跡(瀧不動の碑)
北区滝野川 狐塚の坂と岩屋弁天・正受院(滝不動)への道標

板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>
縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
北区西ヶ原〜滝野川 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)
鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2020 6/29 『旧中山道 板橋宿(仲宿 ) 徳川家康から朱印地が寄進された重蓮寺の参道跡』

地図の黒丸部分、旧中山道からのびる道が、かつてこの部分にあった重蓮寺の参道と境内。
乗蓮寺は徳川家康から朱印地が寄進され、その後も歴代将軍から朱印地が与えられ、格式ある寺院となった。
徳川吉宗の戸田筋の鷹狩りの際には、休憩所としても使われたという。

江戸名所図会 解説より引用ーーーーーーー

重蓮寺
相生杉 女男松

同じ板橋の中の仲宿の有様である。
「重蓮寺じゃ浄土宗の寺で応永年間(一三九四〜一四二八)の草創にして、此の地の郷主板橋信濃守忠康といふ人の菩提寺なり」と本文にある。
歴史の古い寺で、今は同じ区内の赤塚の五丁目に移転し、東京大仏の名で有名である。
寺の境内に大樹が二本見えているが、これを「女男松(めおとのまつ)」という。
ほかに「相生杉(あいおいのすぎ)」というのがあるが、これは本堂の裏手にあるのでこの絵には現われていない。
本堂は草ぶきだが、鐘楼はなかなか立派な造りである。
境内で蓆を広げてもみを乾しているのは寺男の夫婦か。子どもは犬を追いかけ回していて賑やかな声が聞える。
中仙道は相変らず、人通りが多い。向う側の一番右の店の前には行灯看板があって、「二六・・・・」「そばうどん」と読める。二六とか二八とかいうのは、その頃のそばの値段を示したものとか、そば粉とうどん粉の比率を指したものとかいう説があるようだ。
入口に何やらぶらさがっているのは、絵馬型の板に細長く切った紙を貼りつけたもので、この紙は麺類をあらわしたものという。これを軒に吊して看板としていた。
二軒目の奥では、はかりを操っている人が見える。大きく葉っぱが描かれている。
煙草屋のようである。このころ江戸では煙草屋の目印としてたばこの葉っぱを障子や壁に描いていたようである。
石橋の左隣りの店は、みの・菅笠、あとはまんじゅうなどの駄菓子類を商っているらしい。

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写真1枚目、旧中山道から重蓮寺の参道をみる。
地図の黒丸部分、旧中山道からのびる道。
江戸名所図会に石橋が描かれているが、この写真の手前の歩道あたりに架かっていたことになる。

上から2枚目、1枚目とは逆方向、境内から旧中山道方向をみる。

上から3−4枚目、左右に建っている集合住宅部分に重蓮寺本堂があったが、首都高速5号線開通のために、板橋区の赤塚に移転した。
この左の集合住宅は新中山道(国道1号線)に面していて、敷地の一部に無縁仏の供養塔(墓石)が建てられているが、かつてこの地にあった重蓮寺境内にあった墓石なのだろうか。

一番下の写真、赤塚に移転した重蓮寺の東京大仏。
子供の頃に社会科見学?な行事で参拝しにいって「大きいな」と思ったが、今見るとずいぶんとこじんまりとしたお姿に感じる。

江戸名所図会 重蓮寺の拡大画
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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2023 10/24 『板橋区大谷口上町 <上板橋三池/上板橋村三溜池>のひとつ 石神井川 エンガ堀支流 大谷口の溜池を埋め立て建てた<大谷口バラック> 木造密集地域跡』

前記事から引用ーーーーー
■王子駅西口の石神井川氾濫と<石神井川(音無川)沿いにあったバタ屋(バタヤ)部落>・<板橋区大谷口上町・大山と豊島区要町・千川のバタ屋部落 ースラム・貧民窟 バラックー>

・・・・このような部落や違法なバラックは板橋区大谷口の石神井川近くや大山、豊島区要町・千川の千川上水付近にもつくられていた。
大谷口の木造密集地域のバラックは石神井川の支流のエンガ堀のさらに支流であった溜池を埋め立てて造ったという。
大谷口の木造密集地帯はつい20年弱前まで存在していたこともよく知られていて、かつての溜池の源泉である湧水が今も健在。(板橋区役所 湧水地点一覧より:板橋区大谷口上町61番 しみだし程度)

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第2表 東京都区部における「バタヤ」地区の概要
区 所在区域 住居数 世帯数 人口 面積(m2) 不良度 地区類型 土地特徴 形成時期

豊島区要町 236 217 536 1,400 A 仮小屋適正 1954 年
板橋区大谷口町 24 24 106 1,357 C 仮小屋適正不明

※ジオグラフィカ千里第1 号(2019) <戦後東京,「バタヤ」をめぐる社会と空間 本岡拓哉>より引用
ーーーーーーーーーー

この地域は以前から問題視されていた。
板橋区による住宅地区改良事業によって立ち退きにあった人々は改良住宅へと入居し、木造密集地帯は消滅し、区画整備や道路整備も行われて完成入居となったのは2007年とのこと。写真は2023年10月に撮影。

地図1枚目、溜池が描かれているのがわかる。これが大谷口の溜池と呼ばれ、溜池の谷が大谷口地名の由来とされ、大谷道沿い(鮫洲大山線)の“さんみせ(三軒の店)”裏の谷頭部分からの湧水は滝のように落ちてこのような急峻な谷をつくった。
戦後、家を失った人々がこの大谷口の溜池の谷に集まり、溜池を埋めて崖沿いにぎっしりと木造住宅を建てて密集地域が造り、いつしか部落とよばれるようになった。
※かつては上板橋村には溜池三ヶ所ありと書上帳などに記され、<上板橋三池>と呼ばれる大谷口の溜池・向原の溜池・小竹の溜池あった。大谷口の溜池は面積1396坪あり、農業用水として使われていた。谷頭には白竜弁財天(石造)が祀られていが、大谷道(鮫洲大山線)を挟んだ向いの大野さんの屋敷へ移されたという。

写真上から1−2枚目、二股の左の細い道の崖の左右に住宅が密集していた。そこに住んでいた人々は2枚目の左に建てられた<かみちょう住宅>改良住宅へと入居したという。
写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖を撮影。

写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖で、ここに木造住宅がびっしりと建っていた。火災が発生したら消防車も入れないために、あっという間に燃え広がって大規模火災になり、多くの人命が失われることになっただろう。そのような地域はたくさんあり、東日本大震災以降に、今まで眠っていた都市計画道路などの計画がぐっと動き出したように思われる。

写真上から11枚目以降、写真1枚目の二股の右の道を奥から撮影。
長い年月と多くの予算をかけて整備されたことがわかるし、居住者や自治体も大変だっただろう。

整備前の状況は検索を。

今から45年くらい前、大山に住んでいた私は向原に行く時に、もうひとつ先の谷(地図の西側のもっと深い谷)を通って行くようにと言われたことがあったとうっすら記憶している。あそこは人がたくさん住んでいるから騒ぐと迷惑になるからね、とのことだったと思う。
当時、同じ施設で生活をして育った幼なじみ家族が向原団地へ引越し入居してよく遊びに行っていた。そのお家では、ハッピーロード大山にあったおもちゃ屋のヨシオカヤ(吉岡屋)で入手したロボダッチのプラモデルを、TVから流れているマッチの<ギンギラギンにさりげなく>を聞き、変で賑やかな唄だなと思いながら、手脚が細くボディが丸い奇妙で可愛いキャラをいくつも製作したのをよく憶えている。眼帯をした?海賊のキャラとか島になっているものもは高額ゆえに手が出なかったと思う。
いつだったか15年くらい前だったかなぁ...どこかのお店でロボダッチのプラモを見かけ、今見ると何ともちゃちい作りで笑ってしまったのを思い出した。

※地図の西側のもっと深い谷は急なV字になっていて、チャリンコでノーブレーキで駆け下りて惰性でどこまで上れるかという危険な遊びをよくやっていた。

【関連記事】
■東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋<王子スラム・王子バラック跡>)のトンネル跡の湧水
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 王子スラム(王子バラック)と岸二町内案内図<東京第一陸軍造兵廠の遺構 土手に掘られたトンネルの出入口に使用されていた石のアーチ>
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 音無川(石神井川)<音無橋と音無渓谷 改修前の王子大堰>
■<昭和二十年 東京地図> <続・昭和二十年 東京地図 周縁のこと> ー終戦後40年前の東京 そして今から40年前の東京ー 王子スラム(王子バラック)や池袋二丁目 三業町<百軒店>(三業地)など

■板橋宿 上宿跡はスラム街(貧民窟)になった岩の坂(いやな坂) 板橋貰い子殺し事件

■文京区小日向 鼠坂<森鴎外の小説「鼠坂」の舞台となった坂> 鼠坂下は江戸有数の盛り場<岡場所(私娼窟)> 昔は一種の貧民窟(スラム街)

■昭和50年代初頭の頃のハッピーロード大山商店街・遊座大山商店街(板橋区民館通り商店街〜大山サンロード)と町並み(大山町・大山西町) ライフアップ 大丸百貨店・大山東映(映画館)・ヨシオカヤ(おもちゃ屋)
■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標
■石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所

■千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
■千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔

■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2020 6/26 『素麺入り味噌汁』

素麺はそんなに好きではなかったけど、(麺好きだけど)最近は素麺を使った料理をよく作っている。
免疫力を高めると言われているビタミンDを摂取するために、舞茸をめちゃくちゃ食べている。亜鉛のサプリメントも毎日。
別茹でした豚しゃぶ肉を出汁勝ちの舞茸味噌汁に入れて....これがまたおいしいくて々。
汗もかくし、バランスも良いような気がするが、どうでしょうか。

今週の日曜日に夏至をむかえ、これから日に日に暑くなってくるが、日中が短くなってゆく。
新型コロナウイルスでもって密なことを避けないとならない日々がこれからもずっと続く。
今年の夏は酷く暑いがあまり多くならないように願うばかり。
しっかりディフェンスを。

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2020 6/25 『本郷台地の端 神田明神の明神男坂 安房上総 小湊鐵道のディーゼルカー』

昔の地図の黒丸部分に明神男坂がある。
現代は商業ビルディングなどに前方をふさがれて眺望は全く良くないが、本号台地の南東の端なので、かつては遠くを見渡せていたことは容易に想像が出来る。

案内板から引用ーーーーーーーーーーー

明神男坂

この坂を明神男坂といいます。
明神石坂とも呼ばれます。
「神田文化史」には「天保の初年当時神田の町火消『い』『よ』『は』『萬』の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。
この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二十六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。

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下の写真は小湊鐵道の有名なディーゼルカー。(2006年撮影)
打合せで五井駅に行った時に、どうにもこうにも懐かしい姿に喜んで撮影。
この車輌ではないと思うけど、自分が小学生の頃、赤羽線から埼京線に変わり、その頃くらいまで川越線はこんなディーゼルカーが走っていたと記憶している。なぜなら、近郊なのに田舎のよう光景に見えて驚いたから。
東武熊谷線もディーゼルカーでこちらは小さく可愛い車体で、廃線ということで賑わっていたのを憶えている。

20年くらい前かな、勝浦の海岸へツーリングキャンプしに行った時に、小湊鐵道沿線を走って、とても気持ちが良かったのを思い出した。

【過去記事】
神田明神参道隣り 旧中山道(日光御成街道)の枡型道路 江戸御府内<朱引・墨引>“本郷もかねやすまでは江戸の内

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2023 10/24 『板橋区大谷口上町 <上板橋三池/上板橋村三溜池>のひとつ 石神井川 エンガ堀支流 大谷口の溜池を埋め立て建てた<大谷口バラック> 木造密集地域跡』

前記事から引用ーーーーー
■王子駅西口の石神井川氾濫と<石神井川(音無川)沿いにあったバタ屋(バタヤ)部落>・<板橋区大谷口上町・大山と豊島区要町・千川のバタ屋部落 ースラム・貧民窟 バラックー>

・・・・このような部落や違法なバラックは板橋区大谷口の石神井川近くや大山、豊島区要町・千川の千川上水付近にもつくられていた。
大谷口の木造密集地域のバラックは石神井川の支流のエンガ堀のさらに支流であった溜池を埋め立てて造ったという。
大谷口の木造密集地帯はつい20年弱前まで存在していたこともよく知られていて、かつての溜池の源泉である湧水が今も健在。(板橋区役所 湧水地点一覧より:板橋区大谷口上町61番 しみだし程度)

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第2表 東京都区部における「バタヤ」地区の概要
区 所在区域 住居数 世帯数 人口 面積(m2) 不良度 地区類型 土地特徴 形成時期

豊島区要町 236 217 536 1,400 A 仮小屋適正 1954 年
板橋区大谷口町 24 24 106 1,357 C 仮小屋適正不明

※ジオグラフィカ千里第1 号(2019) <戦後東京,「バタヤ」をめぐる社会と空間 本岡拓哉>より引用
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この地域は以前から問題視されていた。
板橋区による住宅地区改良事業によって立ち退きにあった人々は改良住宅へと入居し、木造密集地帯は消滅し、区画整備や道路整備も行われて完成入居となったのは2007年とのこと。写真は2023年10月に撮影。

地図1枚目、溜池が描かれているのがわかる。これが大谷口の溜池と呼ばれ、溜池の谷が大谷口地名の由来とされ、大谷道沿い(鮫洲大山線)の“さんみせ(三軒の店)”裏の谷頭部分からの湧水は滝のように落ちてこのような急峻な谷をつくった。
戦後、家を失った人々がこの大谷口の溜池の谷に集まり、溜池を埋めて崖沿いにぎっしりと木造住宅を建てて密集地域が造り、いつしか部落とよばれるようになった。
※かつては上板橋村には溜池三ヶ所ありと書上帳などに記され、<上板橋三池>と呼ばれる大谷口の溜池・向原の溜池・小竹の溜池あった。大谷口の溜池は面積1396坪あり、農業用水として使われていた。谷頭には白竜弁財天(石造)が祀られていが、大谷道(鮫洲大山線)を挟んだ向いの大野さんの屋敷へ移されたという。

写真上から1−2枚目、二股の左の細い道の崖の左右に住宅が密集していた。そこに住んでいた人々は2枚目の左に建てられた<かみちょう住宅>改良住宅へと入居したという。
写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖を撮影。

写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖で、ここに木造住宅がびっしりと建っていた。火災が発生したら消防車も入れないために、あっという間に燃え広がって大規模火災になり、多くの人命が失われることになっただろう。そのような地域はたくさんあり、東日本大震災以降に、今まで眠っていた都市計画道路などの計画がぐっと動き出したように思われる。

写真上から11枚目以降、写真1枚目の二股の右の道を奥から撮影。
長い年月と多くの予算をかけて整備されたことがわかるし、居住者や自治体も大変だっただろう。

整備前の状況は検索を。

今から45年くらい前、大山に住んでいた私は向原に行く時に、もうひとつ先の谷(地図の西側のもっと深い谷)を通って行くようにと言われたことがあったとうっすら記憶している。あそこは人がたくさん住んでいるから騒ぐと迷惑になるからね、とのことだったと思う。
当時、同じ施設で生活をして育った幼なじみ家族が向原団地へ引越し入居してよく遊びに行っていた。そのお家では、ハッピーロード大山にあったおもちゃ屋のヨシオカヤ(吉岡屋)で入手したロボダッチのプラモデルを、TVから流れているマッチの<ギンギラギンにさりげなく>を聞き、変で賑やかな唄だなと思いながら、手脚が細くボディが丸い奇妙で可愛いキャラをいくつも製作したのをよく憶えている。眼帯をした?海賊のキャラとか島になっているものもは高額ゆえに手が出なかったと思う。
いつだったか15年くらい前だったかなぁ...どこかのお店でロボダッチのプラモを見かけ、今見ると何ともちゃちい作りで笑ってしまったのを思い出した。

※地図の西側のもっと深い谷は急なV字になっていて、チャリンコでノーブレーキで駆け下りて惰性でどこまで上れるかという危険な遊びをよくやっていた。

【関連記事】
■東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋<王子スラム・王子バラック跡>)のトンネル跡の湧水
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 王子スラム(王子バラック)と岸二町内案内図<東京第一陸軍造兵廠の遺構 土手に掘られたトンネルの出入口に使用されていた石のアーチ>
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 音無川(石神井川)<音無橋と音無渓谷 改修前の王子大堰>
■<昭和二十年 東京地図> <続・昭和二十年 東京地図 周縁のこと> ー終戦後40年前の東京 そして今から40年前の東京ー 王子スラム(王子バラック)や池袋二丁目 三業町<百軒店>(三業地)など

■板橋宿 上宿跡はスラム街(貧民窟)になった岩の坂(いやな坂) 板橋貰い子殺し事件

■文京区小日向 鼠坂<森鴎外の小説「鼠坂」の舞台となった坂> 鼠坂下は江戸有数の盛り場<岡場所(私娼窟)> 昔は一種の貧民窟(スラム街)

■昭和50年代初頭の頃のハッピーロード大山商店街・遊座大山商店街(板橋区民館通り商店街〜大山サンロード)と町並み(大山町・大山西町) ライフアップ 大丸百貨店・大山東映(映画館)・ヨシオカヤ(おもちゃ屋)
■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標
■石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所

■千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
■千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔

■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>

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2020 6/24 『神田明神参道隣り 旧中山道(日光御成街道)の枡型道路 江戸御府内<朱引・墨引>“本郷もかねやすまでは江戸の内”』

神田明神の参道は旧中山道(本郷通り、日光御成道<岩槻街道>)につながっていて、地図1−2枚目の黒丸部分、参道の隣りはクランク状(枡型)の道になっていて、この道が旧中山道。
調べてみたけどほとんど情報が出て来ないから特に何か意味があるのか不明だが、枡型の道は江戸に限らず、重要な町にはいくつもあり、それは防衛上重要であることが多い。
この黒丸部分も、江戸の中心へと入る場所なので、そういう防衛の意味があったのではないかと思われるが、どうなのだろうか。
黒丸部分の先、北西へと進むと春日通りとの本郷三丁目交差点になり、そこに「本郷もかねやすまでは江戸の内」でおなじみの“かねやす”というお店があり、これより先は江戸の郊外になっていく。(参考Link 江戸御府内
【過去記事】別れの橋跡・見送り坂と見返り坂 本郷4-37先本郷通り

現在は道の整備のために東側は残り、西側は消滅している。
写真一番下が現存している東側の旧中山道で、現在はあるかどうかわからないが、“中山道”のサインが付けられている。
交通上、この枡型の道路が生きていれば、逆に交通上の障害になるので道路整備の際に消滅したのだろう。

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【過去記事】
板橋宿(上宿・仲宿)の各施設跡(大木戸<江戸御府内 朱引>・上宿 脇本陣板橋市左エ門家・高札場・自身番・問屋場)と新旧の板橋
本郷追分と追分一里塚跡
根津神社の塞の大神碑と追分一里塚跡
中山道 日本橋から三番目 不動の志村一里塚
国指定史跡(大正十一年三月八日指定) 西ヶ原一里塚 北区西ヶ原二ー十三・四先
中仙道か中山道か
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡

本郷 菊坂 樋口一葉旧居跡と井戸

縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道

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2023 10/24 『板橋区大谷口上町 <上板橋三池/上板橋村三溜池>のひとつ 石神井川 エンガ堀支流 大谷口の溜池を埋め立て建てた<大谷口バラック> 木造密集地域跡』

前記事から引用ーーーーー
■王子駅西口の石神井川氾濫と<石神井川(音無川)沿いにあったバタ屋(バタヤ)部落>・<板橋区大谷口上町・大山と豊島区要町・千川のバタ屋部落 ースラム・貧民窟 バラックー>

・・・・このような部落や違法なバラックは板橋区大谷口の石神井川近くや大山、豊島区要町・千川の千川上水付近にもつくられていた。
大谷口の木造密集地域のバラックは石神井川の支流のエンガ堀のさらに支流であった溜池を埋め立てて造ったという。
大谷口の木造密集地帯はつい20年弱前まで存在していたこともよく知られていて、かつての溜池の源泉である湧水が今も健在。(板橋区役所 湧水地点一覧より:板橋区大谷口上町61番 しみだし程度)

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第2表 東京都区部における「バタヤ」地区の概要
区 所在区域 住居数 世帯数 人口 面積(m2) 不良度 地区類型 土地特徴 形成時期

豊島区要町 236 217 536 1,400 A 仮小屋適正 1954 年
板橋区大谷口町 24 24 106 1,357 C 仮小屋適正不明

※ジオグラフィカ千里第1 号(2019) <戦後東京,「バタヤ」をめぐる社会と空間 本岡拓哉>より引用
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この地域は以前から問題視されていた。
板橋区による住宅地区改良事業によって立ち退きにあった人々は改良住宅へと入居し、木造密集地帯は消滅し、区画整備や道路整備も行われて完成入居となったのは2007年とのこと。写真は2023年10月に撮影。

地図1枚目、溜池が描かれているのがわかる。これが大谷口の溜池と呼ばれ、溜池の谷が大谷口地名の由来とされ、大谷道沿い(鮫洲大山線)の“さんみせ(三軒の店)”裏の谷頭部分からの湧水は滝のように落ちてこのような急峻な谷をつくった。
戦後、家を失った人々がこの大谷口の溜池の谷に集まり、溜池を埋めて崖沿いにぎっしりと木造住宅を建てて密集地域が造り、いつしか部落とよばれるようになった。
※かつては上板橋村には溜池三ヶ所ありと書上帳などに記され、<上板橋三池>と呼ばれる大谷口の溜池・向原の溜池・小竹の溜池あった。大谷口の溜池は面積1396坪あり、農業用水として使われていた。谷頭には白竜弁財天(石造)が祀られていが、大谷道(鮫洲大山線)を挟んだ向いの大野さんの屋敷へ移されたという。

写真上から1−2枚目、二股の左の細い道の崖の左右に住宅が密集していた。そこに住んでいた人々は2枚目の左に建てられた<かみちょう住宅>改良住宅へと入居したという。
写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖を撮影。

写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖で、ここに木造住宅がびっしりと建っていた。火災が発生したら消防車も入れないために、あっという間に燃え広がって大規模火災になり、多くの人命が失われることになっただろう。そのような地域はたくさんあり、東日本大震災以降に、今まで眠っていた都市計画道路などの計画がぐっと動き出したように思われる。

写真上から11枚目以降、写真1枚目の二股の右の道を奥から撮影。
長い年月と多くの予算をかけて整備されたことがわかるし、居住者や自治体も大変だっただろう。

整備前の状況は検索を。

今から45年くらい前、大山に住んでいた私は向原に行く時に、もうひとつ先の谷(地図の西側のもっと深い谷)を通って行くようにと言われたことがあったとうっすら記憶している。あそこは人がたくさん住んでいるから騒ぐと迷惑になるからね、とのことだったと思う。
当時、同じ施設で生活をして育った幼なじみ家族が向原団地へ引越し入居してよく遊びに行っていた。そのお家では、ハッピーロード大山にあったおもちゃ屋のヨシオカヤ(吉岡屋)で入手したロボダッチのプラモデルを、TVから流れているマッチの<ギンギラギンにさりげなく>を聞き、変で賑やかな唄だなと思いながら、手脚が細くボディが丸い奇妙で可愛いキャラをいくつも製作したのをよく憶えている。眼帯をした?海賊のキャラとか島になっているものもは高額ゆえに手が出なかったと思う。
いつだったか15年くらい前だったかなぁ...どこかのお店でロボダッチのプラモを見かけ、今見ると何ともちゃちい作りで笑ってしまったのを思い出した。

※地図の西側のもっと深い谷は急なV字になっていて、チャリンコでノーブレーキで駆け下りて惰性でどこまで上れるかという危険な遊びをよくやっていた。

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■千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔

■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>

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2020 6/22 『板橋区蓮根 ダイエー西台店の間を流れる用水路跡』

板橋区の北部、高島平〜蓮根〜坂下を流れる用水路は地図の青線で、新河岸川に合流していた。
赤丸部分にダイエー西台店があり、二つの建物はブリッジでつながれていて、建物の間をかつて用水路が流れていた。
かつてこの一帯は徳丸ヶ原といわれていた大きな原っぱで、東京の米所として栄えた水田地帯でもあった。また、荒川の氾濫源でもあり、下町から洪水を防ぐ目的で未開発ともしていた。

都市計画道路の整備で東西に高島通りを通し、南北の道路との交差点は一等地であり、たまたまその敷地に用水路が流れていたので、ダイエーは二棟の建物となった。
同じような立地・構造としてよく知られてるのは渋谷の西武デパートで、建物が二つに分かれていて、その間を暗渠となった宇田川が流れている。
都営三田線の高架の隣、東へと流れる用水路は大きなヘビのオブジェが置かれている通称ヘビ公園として、ちびっ子の遊び場になっている。

水田で繁栄していた徳丸ヶ原時代は東西南北に無数に用水路がひかれていたが、今はほとんどその跡を見ることはできないので、ダイエー西台店の敷地の真ん中を通る用水路跡は貴重な遺構でもあるかと思う。
ちなみにダイエーの敷地から西側には用水路の痕跡は一切ない。

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【過去記事】
高島平の名の由来 高島流
文京区向丘 大円寺 高島秋帆の墓
板橋区高島平 徳丸ヶ原 蓮根馬頭観音縁起

ボクらのホームグラウンドの前谷津川
ボクらのホームグラウンドの前谷津川の支流
前谷津川支流 不動通り 中尾不動尊の谷

いたばし大交通展 人工地盤 西台アパート(西台団地) 富士山を望む
あぶないランプその2
健さん 新幹線大爆破 志村検査場・交通局志村基地

板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿
板橋志村、この地に生きて 大野邦雄 遺稿集

板橋区新河岸三丁目 早瀬前遺跡 鎌倉街道 早瀬の渡し
戸田橋の親柱と武蔵野台地の崖線

構成要素
オールドスクール
オールドスクール #2
スケートボード道
あぶないランプその2
スケートをする意味
我ら徳丸ヶ原のスケートチーム
また出会って、共に生きましょう
自分のためにスケートを
この1年半のスケートボードの練習まとめ
やすらかに
スケートボードのホームグラウンド

河骨川(春の小川)
自然の猛威 渋谷川千駄ヶ谷・代々木支流付近の谷

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