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2020 10/26 『板橋区加賀 旧理化学研究所板橋分所跡から石神井川に落ちる雨水』

地図の青丸部分に“理化学研究所 板橋分所”付近から集った雨水が石神井川に落ちている。
板橋分所(2015年3月に閉所)は戦後からの復興を象徴する場所であり、湯川秀樹博士が研究室をおいた場所でもあった。
現在、国指定史跡として陸軍板橋火薬製造所跡と旧理化学研究所板橋分所跡が整備されている。

小さな滝が落ちているように見える。

この先の下流域はかつて滝がいくつも石神井川に落ちていた。
現在でもいくつか湧水がある。
下記の石神井川系と王子七滝、王子十五滝の記事を参考に。

“石神井川に落ちる雨水の映像は下記。
(720×1280 18.9MB mp4 こちら

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■東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
■千川上水から東京第二陸軍造兵廠板橋製造所へ取水した分水口と水路跡
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■東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
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■国指定史跡 東京第二陸軍板橋火薬製造所跡
■東京第二陸軍造兵廠 境界壁(支柱)

■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋)のトンネルの湧水

■王子新道の由来と花月通<千川上水に架かる花月橋>

■加賀藩下屋敷にあった山々 現存する大山(築山)

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2020 10/20 『板橋区仲町(旧 山中) 鎌倉街道沿い 徳川家康の乗馬のくつわを祀ったともいわれる轡神社』

地図の黒丸部分に轡神社(くつわ)がある。
その前には鎌倉街道が通っている。

案内板から引用ーーーーーーーーーーー

御祭神 倭建命(やまとたけるのみこと)
もと轡権現社と呼ばれていました。
名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。
江戸時代から、「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わったといいます。
信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。
社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の「板橋」という説もあります。

平成九年三月 板橋区教育委員会

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿の手前の棚に馬わらじが奉納されているのが写っている。
氏子地域は特にないそうで、氏子は十数戸ほどだという。
左の狛犬の台座には<山中出生者>、その下には町名と氏名が刻まれている。
この山中という地名は、かつてこの現 仲町や大山町付近の旧町名。
板橋町の恩田六三郎氏は、この山中地域代表的な氏名で、今でも恩田さんが多い。
かつて板橋宿が拓かれて整備される際に幕府からの命を受けたのが、この山中地域の住民だったと記憶している。
この地域の方が早くから拓かれていて多くの住人が居たことからなのだろう。それは鎌倉街道と(旧)川越街道が交差する交通の要衝であったからだろうと思う。
現在は川越街道をはさんで向かいに移転した大山町交番は、もう40年以上前、山中(町)交番と言っていた。その時には町名は当然大山町に変わっていたので、古老などがそう言い続けていたのを自分は憶えていたのだろうか。
40年程前に住んでいたこともあって、この地域がとても懐かしい。
他の地域に引っ越しをして、都立高校に進学した時に、この山中周辺に住んでいる同級生とは今でも変わらずに仲良くしている。幼少期に同じ地域で育った仲だから元の気質が合うのだろう。

【関連記事】
■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>
■旧中山道と旧川越街道をつなぐ小松屋横町道
■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標

■板橋区仲町 轡神社近く 鎌倉街道沿いの庚申塔
■旧中山道 板橋宿(仲宿 ) 徳川家康から朱印地が寄進された重蓮寺の参道跡

■旧鎌倉街道 中道編
■鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田
■豊島区立郷土資料館 新・旧鎌倉街道
■鎌倉街道 中道 並木橋
■板橋区赤塚 鎌倉古道
■板橋区新河岸三丁目 早瀬前遺跡 鎌倉街道 早瀬の渡し
■縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
■渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道

■北区西ヶ原 鎌倉道につながる熊野坂 豊島郡衙へ
■北区西ヶ原〜滝野川 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)

■板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>

■上板橋宿と大山福地蔵尊
■町民を癒し見守る大山福地蔵尊

■豊敬稲荷神社 旧上板橋宿概要図
■上板橋宿にあるかつての“板橋”の親柱と距離の札

■豊敬稲荷神社 旧上板橋宿概要図
■上板橋宿にあるかつての“板橋”の親柱と距離の札

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2023 10/24 『板橋区大谷口上町 <上板橋三池/上板橋村三溜池>のひとつ 石神井川 エンガ堀支流 大谷口の溜池を埋め立て建てた<大谷口バラック> 木造密集地域跡』

前記事から引用ーーーーー
■王子駅西口の石神井川氾濫と<石神井川(音無川)沿いにあったバタ屋(バタヤ)部落>・<板橋区大谷口上町・大山と豊島区要町・千川のバタ屋部落 ースラム・貧民窟 バラックー>

・・・・このような部落や違法なバラックは板橋区大谷口の石神井川近くや大山、豊島区要町・千川の千川上水付近にもつくられていた。
大谷口の木造密集地域のバラックは石神井川の支流のエンガ堀のさらに支流であった溜池を埋め立てて造ったという。
大谷口の木造密集地帯はつい20年弱前まで存在していたこともよく知られていて、かつての溜池の源泉である湧水が今も健在。(板橋区役所 湧水地点一覧より:板橋区大谷口上町61番 しみだし程度)

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第2表 東京都区部における「バタヤ」地区の概要
区 所在区域 住居数 世帯数 人口 面積(m2) 不良度 地区類型 土地特徴 形成時期

豊島区要町 236 217 536 1,400 A 仮小屋適正 1954 年
板橋区大谷口町 24 24 106 1,357 C 仮小屋適正不明

※ジオグラフィカ千里第1 号(2019) <戦後東京,「バタヤ」をめぐる社会と空間 本岡拓哉>より引用
ーーーーーーーーーー

この地域は以前から問題視されていた。
板橋区による住宅地区改良事業によって立ち退きにあった人々は改良住宅へと入居し、木造密集地帯は消滅し、区画整備や道路整備も行われて完成入居となったのは2007年とのこと。写真は2023年10月に撮影。

地図1枚目、溜池が描かれているのがわかる。これが大谷口の溜池と呼ばれ、溜池の谷が大谷口地名の由来とされ、大谷道沿い(鮫洲大山線)の“さんみせ(三軒の店)”裏の谷頭部分からの湧水は滝のように落ちてこのような急峻な谷をつくった。
戦後、家を失った人々がこの大谷口の溜池の谷に集まり、溜池を埋めて崖沿いにぎっしりと木造住宅を建てて密集地域が造り、いつしか部落とよばれるようになった。
※かつては上板橋村には溜池三ヶ所ありと書上帳などに記され、<上板橋三池>と呼ばれる大谷口の溜池・向原の溜池・小竹の溜池あった。大谷口の溜池は面積1396坪あり、農業用水として使われていた。谷頭には白竜弁財天(石造)が祀られていが、大谷道(鮫洲大山線)を挟んだ向いの大野さんの屋敷へ移されたという。

写真上から1−2枚目、二股の左の細い道の崖の左右に住宅が密集していた。そこに住んでいた人々は2枚目の左に建てられた<かみちょう住宅>改良住宅へと入居したという。
写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖を撮影。

写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖で、ここに木造住宅がびっしりと建っていた。火災が発生したら消防車も入れないために、あっという間に燃え広がって大規模火災になり、多くの人命が失われることになっただろう。そのような地域はたくさんあり、東日本大震災以降に、今まで眠っていた都市計画道路などの計画がぐっと動き出したように思われる。

写真上から11枚目以降、写真1枚目の二股の右の道を奥から撮影。
長い年月と多くの予算をかけて整備されたことがわかるし、居住者や自治体も大変だっただろう。

整備前の状況は検索を。

今から45年くらい前、大山に住んでいた私は向原に行く時に、もうひとつ先の谷(地図の西側のもっと深い谷)を通って行くようにと言われたことがあったとうっすら記憶している。あそこは人がたくさん住んでいるから騒ぐと迷惑になるからね、とのことだったと思う。
当時、同じ施設で生活をして育った幼なじみ家族が向原団地へ引越し入居してよく遊びに行っていた。そのお家では、ハッピーロード大山にあったおもちゃ屋のヨシオカヤ(吉岡屋)で入手したロボダッチのプラモデルを、TVから流れているマッチの<ギンギラギンにさりげなく>を聞き、変で賑やかな唄だなと思いながら、手脚が細くボディが丸い奇妙で可愛いキャラをいくつも製作したのをよく憶えている。眼帯をした?海賊のキャラとか島になっているものもは高額ゆえに手が出なかったと思う。
いつだったか15年くらい前だったかなぁ...どこかのお店でロボダッチのプラモを見かけ、今見ると何ともちゃちい作りで笑ってしまったのを思い出した。

※地図の西側のもっと深い谷は急なV字になっていて、チャリンコでノーブレーキで駆け下りて惰性でどこまで上れるかという危険な遊びをよくやっていた。

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■東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋<王子スラム・王子バラック跡>)のトンネル跡の湧水
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 王子スラム(王子バラック)と岸二町内案内図<東京第一陸軍造兵廠の遺構 土手に掘られたトンネルの出入口に使用されていた石のアーチ>
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 音無川(石神井川)<音無橋と音無渓谷 改修前の王子大堰>
■<昭和二十年 東京地図> <続・昭和二十年 東京地図 周縁のこと> ー終戦後40年前の東京 そして今から40年前の東京ー 王子スラム(王子バラック)や池袋二丁目 三業町<百軒店>(三業地)など

■板橋宿 上宿跡はスラム街(貧民窟)になった岩の坂(いやな坂) 板橋貰い子殺し事件

■文京区小日向 鼠坂<森鴎外の小説「鼠坂」の舞台となった坂> 鼠坂下は江戸有数の盛り場<岡場所(私娼窟)> 昔は一種の貧民窟(スラム街)

■昭和50年代初頭の頃のハッピーロード大山商店街・遊座大山商店街(板橋区民館通り商店街〜大山サンロード)と町並み(大山町・大山西町) ライフアップ 大丸百貨店・大山東映(映画館)・ヨシオカヤ(おもちゃ屋)
■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標
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■千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
■千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔

■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>

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2020 10/19 『板橋区仲町 轡神社近く 鎌倉街道沿いの庚申塔』

地図の黒丸部分に庚申塔がある。
その横には鎌倉街道が通っていて、その先は旧川越街道との交差点で交通の要衝だった。この鎌倉道は別名 椎名町道(兵隊道)とも言われている。
(椎名町道は途中で南下する)
旧川越街道との交差点付近には、お福さんという行者(加持祈祷)がやってきて、旅人や怪我をした馬などを労ったことから、今では大山福地蔵尊として祀られている。
また、庚申斜め向かいあたりに轡神社があり、かつて徳川家康が休憩したとも言われている。
この庚申塔のが建てられたのは不明だが、今でも大切にされていることがわかる。

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■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

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■北区西ヶ原 鎌倉道につながる熊野坂 豊島郡衙へ
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■板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>

■板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標

■上板橋宿と大山福地蔵尊
■町民を癒し見守る大山福地蔵尊

■豊敬稲荷神社 旧上板橋宿概要図
■上板橋宿にあるかつての“板橋”の親柱ーーと距離の札

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2023 10/24 『板橋区大谷口上町 <上板橋三池/上板橋村三溜池>のひとつ 石神井川 エンガ堀支流 大谷口の溜池を埋め立て建てた<大谷口バラック> 木造密集地域跡』

前記事から引用ーーーーー
■王子駅西口の石神井川氾濫と<石神井川(音無川)沿いにあったバタ屋(バタヤ)部落>・<板橋区大谷口上町・大山と豊島区要町・千川のバタ屋部落 ースラム・貧民窟 バラックー>

・・・・このような部落や違法なバラックは板橋区大谷口の石神井川近くや大山、豊島区要町・千川の千川上水付近にもつくられていた。
大谷口の木造密集地域のバラックは石神井川の支流のエンガ堀のさらに支流であった溜池を埋め立てて造ったという。
大谷口の木造密集地帯はつい20年弱前まで存在していたこともよく知られていて、かつての溜池の源泉である湧水が今も健在。(板橋区役所 湧水地点一覧より:板橋区大谷口上町61番 しみだし程度)

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第2表 東京都区部における「バタヤ」地区の概要
区 所在区域 住居数 世帯数 人口 面積(m2) 不良度 地区類型 土地特徴 形成時期

豊島区要町 236 217 536 1,400 A 仮小屋適正 1954 年
板橋区大谷口町 24 24 106 1,357 C 仮小屋適正不明

※ジオグラフィカ千里第1 号(2019) <戦後東京,「バタヤ」をめぐる社会と空間 本岡拓哉>より引用
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この地域は以前から問題視されていた。
板橋区による住宅地区改良事業によって立ち退きにあった人々は改良住宅へと入居し、木造密集地帯は消滅し、区画整備や道路整備も行われて完成入居となったのは2007年とのこと。写真は2023年10月に撮影。

地図1枚目、溜池が描かれているのがわかる。これが大谷口の溜池と呼ばれ、溜池の谷が大谷口地名の由来とされ、大谷道沿い(鮫洲大山線)の“さんみせ(三軒の店)”裏の谷頭部分からの湧水は滝のように落ちてこのような急峻な谷をつくった。
戦後、家を失った人々がこの大谷口の溜池の谷に集まり、溜池を埋めて崖沿いにぎっしりと木造住宅を建てて密集地域が造り、いつしか部落とよばれるようになった。
※かつては上板橋村には溜池三ヶ所ありと書上帳などに記され、<上板橋三池>と呼ばれる大谷口の溜池・向原の溜池・小竹の溜池あった。大谷口の溜池は面積1396坪あり、農業用水として使われていた。谷頭には白竜弁財天(石造)が祀られていが、大谷道(鮫洲大山線)を挟んだ向いの大野さんの屋敷へ移されたという。

写真上から1−2枚目、二股の左の細い道の崖の左右に住宅が密集していた。そこに住んでいた人々は2枚目の左に建てられた<かみちょう住宅>改良住宅へと入居したという。
写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖を撮影。

写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖で、ここに木造住宅がびっしりと建っていた。火災が発生したら消防車も入れないために、あっという間に燃え広がって大規模火災になり、多くの人命が失われることになっただろう。そのような地域はたくさんあり、東日本大震災以降に、今まで眠っていた都市計画道路などの計画がぐっと動き出したように思われる。

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今から45年くらい前、大山に住んでいた私は向原に行く時に、もうひとつ先の谷(地図の西側のもっと深い谷)を通って行くようにと言われたことがあったとうっすら記憶している。あそこは人がたくさん住んでいるから騒ぐと迷惑になるからね、とのことだったと思う。
当時、同じ施設で生活をして育った幼なじみ家族が向原団地へ引越し入居してよく遊びに行っていた。そのお家では、ハッピーロード大山にあったおもちゃ屋のヨシオカヤ(吉岡屋)で入手したロボダッチのプラモデルを、TVから流れているマッチの<ギンギラギンにさりげなく>を聞き、変で賑やかな唄だなと思いながら、手脚が細くボディが丸い奇妙で可愛いキャラをいくつも製作したのをよく憶えている。眼帯をした?海賊のキャラとか島になっているものもは高額ゆえに手が出なかったと思う。
いつだったか15年くらい前だったかなぁ...どこかのお店でロボダッチのプラモを見かけ、今見ると何ともちゃちい作りで笑ってしまったのを思い出した。

※地図の西側のもっと深い谷は急なV字になっていて、チャリンコでノーブレーキで駆け下りて惰性でどこまで上れるかという危険な遊びをよくやっていた。

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■千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔

■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>

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2020 10/16 『豊島区東池袋 六つ又 子育地蔵尊』

地図の黒丸部分に立派な子育地蔵尊がある。
かつてこの敷地は時習小学校だったと記憶している。
豊島区もあちこち廃校になって、大きな敷地は公園や大学などに変わっていった。
かつて子育地蔵尊は鎌倉街道沿いで六つ又交差点近くにあって、首都高の工事によって、この地に移されたそうだが、六つ又交差点と鎌倉街道は少し離れているので、どこから移されたのかはよく分からない。

お花が絶えることがないので、地域の住民によって大切にされていることがよく分かるし、通行人がお参りをしている姿もよく見かける。

全然関係がないが、もう何十年も前に、この付近で抗争による発砲事件があった。
北口周辺、平和通り(古道 高田道)もあまり平和ではない....外国人による発砲事件もある。
平穏な日々はもうやってこないのだろうか。

平和であるように。

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■板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>
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■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>
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■雑司が谷 未来遺産 雑司が谷・高田と池袋本町と板橋宿をむすぶ高田道
■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>
■渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道
■旧鎌倉街道 中道編
■鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田
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■巣鴨 眞性寺の地蔵菩薩(子育地蔵尊) 実弟を重ねて

■池袋の川 弦巻川
■豊島区の100年 弦巻川 丸池跡
■豊島区の湧き水と池 <弦巻川の水源である丸池跡の元池袋公園の思い出>
■池袋の川 水窪川 暗渠をぬけて
■今宮神社駐車場の湧水 (水窪川 小日向台の崖線) 
■複合遺跡 東池袋遺跡 旗本中西家の屋敷地と御鷹方御役屋敷

■池袋御嶽神社 ふくろうの像(梟の像 親子)

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2020 10/15 『復元 江戸情報地図』

高額な図書なので、禁帯出な図書館がほとんどなのですが....
現代と昔を重ねて見られるのでおもしろい。
携帯で見るよりも、紙媒体で見る方がやっぱり見やすい。

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