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2022 3/11 『東日本大震災から11年 当時のこと今のこと』

電話で打合せをして切ってしばらくしたら、経験したことがない大きな揺れに耐えて、「えらいことになった」と、ランニングシューズを履いて玄関を飛び出し、階段を一気に駆け下り、途中で巨大なスーツケースを3人で引っぱって階段を上がっていた中国人をジャンプでかわし、バイクのエンジンをかけて、実母の元へとアクセルをひねった。 途中でバイクごとぐらついて転倒しそうになるも回避し(2波目の揺れだったと思う)、母の家の階段を一気に7階へ駆け上がった。
「お母さん、大丈夫で良かった」と心から思ったのをハッキリと憶えている。この当時、母はまだ階段を少し使えたが、今は一切使えない。
夕方前だっただろうか、徒歩で避難中だった義理姉を家に招き、夜は渋谷から徒歩避難移動していた妻を大渋滞の中、途中でピックアップして無事に帰宅した。機動力の高いバイクを持ってて本当に良かったと思った。この先、オフロードバイクは一家に一台くらいでも良いとも思う。

写真はその当時のもの。
茨城県鹿島の海は漂流物でいっぱいになったと。
そして、緊急事態のために友人が機関車で被災地へ油を届けていた。
この11年でディーゼル機関車はかなり引退して解体されたとどこかで読んだ記憶がある。また災害による緊急事態が発生した時に、非電化区間を走ることができる新型の代替機関車は造られたのだろう。

皆それぞれ大変な経験をしたことと思います。
そして今、また世界で大変な出来事がおきています。
大変悲しいことです。

この11年の中、特に6年前から身近な友、仲間、親友が立て続けに4人亡くなった。最近は会っていなかった友らも含めると10人、身内を含めるとさらに多くなる....そういうものですけどね。
年を重ねると毎朝祈る時間が少しずつ増えて長くなった。
そして高齢の家族の介護をする生活が突然スタートしたのも、この11年の間で、特にこの6年はダッシュしているような感覚だが、とても幸せなことだと感じている。自分が出来ることはこれからも変わらずに親にしたいと思っている。もうそんなに長くは居られないから。
認知症になった身内も何人もいる...今もそうだが、これからもっと大変になる。

早くに天国にあがった年子の実弟の名は<幸世>という。
幸せな世が長く続いて欲しいと心から思う。

※磐越西線 迂9292レ 立ち往生からの出発 Youtube

【関連記事】
■東日本大震災石油輸送 EH200・DD51+タキ+DE10
■3月10日東京大空襲 湘南二宮町のガラスのうさぎ像 3月11日東日本大震災

■巣鴨 眞性寺の地蔵菩薩(子育地蔵尊) 実弟を重ねて

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2023 10/24 『板橋区大谷口上町 <上板橋三池/上板橋村三溜池>のひとつ 石神井川 エンガ堀支流 大谷口の溜池を埋め立て建てた<大谷口バラック> 木造密集地域跡』

前記事から引用ーーーーー
■王子駅西口の石神井川氾濫と<石神井川(音無川)沿いにあったバタ屋(バタヤ)部落>・<板橋区大谷口上町・大山と豊島区要町・千川のバタ屋部落 ースラム・貧民窟 バラックー>

・・・・このような部落や違法なバラックは板橋区大谷口の石神井川近くや大山、豊島区要町・千川の千川上水付近にもつくられていた。
大谷口の木造密集地域のバラックは石神井川の支流のエンガ堀のさらに支流であった溜池を埋め立てて造ったという。
大谷口の木造密集地帯はつい20年弱前まで存在していたこともよく知られていて、かつての溜池の源泉である湧水が今も健在。(板橋区役所 湧水地点一覧より:板橋区大谷口上町61番 しみだし程度)

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第2表 東京都区部における「バタヤ」地区の概要
区 所在区域 住居数 世帯数 人口 面積(m2) 不良度 地区類型 土地特徴 形成時期

豊島区要町 236 217 536 1,400 A 仮小屋適正 1954 年
板橋区大谷口町 24 24 106 1,357 C 仮小屋適正不明

※ジオグラフィカ千里第1 号(2019) <戦後東京,「バタヤ」をめぐる社会と空間 本岡拓哉>より引用
ーーーーーーーーーー

この地域は以前から問題視されていた。
板橋区による住宅地区改良事業によって立ち退きにあった人々は改良住宅へと入居し、木造密集地帯は消滅し、区画整備や道路整備も行われて完成入居となったのは2007年とのこと。写真は2023年10月に撮影。

地図1枚目、溜池が描かれているのがわかる。これが大谷口の溜池と呼ばれ、溜池の谷が大谷口地名の由来とされ、大谷道沿い(鮫洲大山線)の“さんみせ(三軒の店)”裏の谷頭部分からの湧水は滝のように落ちてこのような急峻な谷をつくった。
戦後、家を失った人々がこの大谷口の溜池の谷に集まり、溜池を埋めて崖沿いにぎっしりと木造住宅を建てて密集地域が造り、いつしか部落とよばれるようになった。
※かつては上板橋村には溜池三ヶ所ありと書上帳などに記され、<上板橋三池>と呼ばれる大谷口の溜池・向原の溜池・小竹の溜池あった。大谷口の溜池は面積1396坪あり、農業用水として使われていた。谷頭には白竜弁財天(石造)が祀られていが、大谷道(鮫洲大山線)を挟んだ向いの大野さんの屋敷へ移されたという。

写真上から1−2枚目、二股の左の細い道の崖の左右に住宅が密集していた。そこに住んでいた人々は2枚目の左に建てられた<かみちょう住宅>改良住宅へと入居したという。
写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖を撮影。

写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖で、ここに木造住宅がびっしりと建っていた。火災が発生したら消防車も入れないために、あっという間に燃え広がって大規模火災になり、多くの人命が失われることになっただろう。そのような地域はたくさんあり、東日本大震災以降に、今まで眠っていた都市計画道路などの計画がぐっと動き出したように思われる。

写真上から11枚目以降、写真1枚目の二股の右の道を奥から撮影。
長い年月と多くの予算をかけて整備されたことがわかるし、居住者や自治体も大変だっただろう。

整備前の状況は検索を。

今から45年くらい前、大山に住んでいた私は向原に行く時に、もうひとつ先の谷(地図の西側のもっと深い谷)を通って行くようにと言われたことがあったとうっすら記憶している。あそこは人がたくさん住んでいるから騒ぐと迷惑になるからね、とのことだったと思う。
当時、同じ施設で生活をして育った幼なじみ家族が向原団地へ引越し入居してよく遊びに行っていた。そのお家では、ハッピーロード大山にあったおもちゃ屋のヨシオカヤ(吉岡屋)で入手したロボダッチのプラモデルを、TVから流れているマッチの<ギンギラギンにさりげなく>を聞き、変で賑やかな唄だなと思いながら、手脚が細くボディが丸い奇妙で可愛いキャラをいくつも製作したのをよく憶えている。眼帯をした?海賊のキャラとか島になっているものもは高額ゆえに手が出なかったと思う。
いつだったか15年くらい前だったかなぁ...どこかのお店でロボダッチのプラモを見かけ、今見ると何ともちゃちい作りで笑ってしまったのを思い出した。

※地図の西側のもっと深い谷は急なV字になっていて、チャリンコでノーブレーキで駆け下りて惰性でどこまで上れるかという危険な遊びをよくやっていた。

【関連記事】
■東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋<王子スラム・王子バラック跡>)のトンネル跡の湧水
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 王子スラム(王子バラック)と岸二町内案内図<東京第一陸軍造兵廠の遺構 土手に掘られたトンネルの出入口に使用されていた石のアーチ>
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 音無川(石神井川)<音無橋と音無渓谷 改修前の王子大堰>
■<昭和二十年 東京地図> <続・昭和二十年 東京地図 周縁のこと> ー終戦後40年前の東京 そして今から40年前の東京ー 王子スラム(王子バラック)や池袋二丁目 三業町<百軒店>(三業地)など

■板橋宿 上宿跡はスラム街(貧民窟)になった岩の坂(いやな坂) 板橋貰い子殺し事件

■文京区小日向 鼠坂<森鴎外の小説「鼠坂」の舞台となった坂> 鼠坂下は江戸有数の盛り場<岡場所(私娼窟)> 昔は一種の貧民窟(スラム街)

■昭和50年代初頭の頃のハッピーロード大山商店街・遊座大山商店街(板橋区民館通り商店街〜大山サンロード)と町並み(大山町・大山西町) ライフアップ 大丸百貨店・大山東映(映画館)・ヨシオカヤ(おもちゃ屋)
■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標
■石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所

■千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
■千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔

■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>

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2022 3/10 『板橋区栄町 板橋競馬場跡 石神井川沿い<愛光舎牧場> 現 牛乳販売店<愛光舎>』

地図の赤丸部分、現板橋区立中根橋小学校付近の石神井川沿いにかつて愛光舎という牧場があったという。

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豊島区立郷土資料館だより<かたりべ19>1990年8月20日発行より引用

上の油絵は、昭和一〇年頃の桜木舎(現、南大塚一丁目)の牧場風景を描いたものです。
・・・昭和八年の『東京牛乳畜産組合員名簿』によると、当時豊島区には七ヶ所の牧場やその関連施設がありましたが、最盛期の大正八年頃には”牛屋横町”と呼ばれた西巣鴨町の二六ヶ所を筆頭として、計四二ヶ所の牧場が点在し、東京市民の重要な牛乳供給地となっていました。
この絵のモデルとなった桜木舎は、区内で最後まで経営を続けていましたが、昭和二〇年四月十三日の空襲にあり、約二年後に廃止されました。

<ミルク色の残像ー東京の牧場展ー>・・・ところで、明治中期から第二次世界大戦直後まで豊島区にはいくつかの牧場があったかご存じでしょうか。高層ビルが立ち並び、人口密度が日本一高い今日の豊島区からは想像もつきませんが五〇年程前までは、区内のあちこちで乳牛の姿を見ることができたのです。
豊島区における牧場の創始者といえば、千葉から来た前田喜代松の名を忘れることはできません。一八八八(明治二一)年、前田が鬼子母神前に「北辰社」牧場を開いたのが豊島の牧場の始まりとされています。そしてこれ以降、区内には、角倉賀道の「愛光舎」や田村貞馬の「強国舎」など日本の牛乳搾取業を代表する牧場が、巣鴨・池袋地域を中心に次々と開設されました。そして一九四七(昭和二二)年に「桜木舎」が経営に終止符を打つまで、のべ六〇ヶ所の牧場が、東京市民に牛乳を供給し続けたのです。
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愛光舎牧場は1913年(大正2年)に巣鴨から、板橋競馬場跡地北側から石神井川一帯に(約1万5千坪、約100頭のホルスタイン種の乳牛を飼育)移転してきたという。
石神井川沿いには昭和初期に多くの牧場が開設されたが、昭和30年代後半頃までに移転や廃業して姿を消したと。
愛光舎牧場は戦前期まで経営していたそうだが、現在は牛乳販売店として愛光舎が、中根橋小学校の東側で営業を続けられている。(三井住友トラスト不動産のサイトより引用)
一番上の古地図より、石神井川の本流から引いた流れ(池のようなものだろうか)が乳牛飼育に役に立ったようだ。
今もこうして牧場の面影を思い浮かべることができるのもいいですね。

【関連記事】
■石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所
■豊敬稲荷神社 旧上板橋宿概要図
■板橋区弥生町 上板橋宿 豊敬稲荷神社の玉垣に刻まれた瀬戸川牧場

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2022 3/4 『板橋区赤塚 泉福寺所蔵板碑.』

赤塚中央通りから少し西へ進むと泉福寺があり、すぐ近くには大堂と八幡神社がある。
道をはさんで向うには前谷津川がかつて流れていた。

<泉福寺所蔵板碑>から引用ーーーーーーーーーーーー
泉福寺は、東側に隣接する大堂の暦応3年(1340)の銘を持つ銅鐘(国重要美術品・区登録文化財)にその名が記されており、創建はそれ以前に遡ると考えられます。
板碑は、13世紀半ばから16世紀後半にかけて造られた石製供養塔婆の一つで、表面に梵字や図像で表された仏菩薩、年号、造立趣旨などが刻まれています。
泉福寺所蔵板碑は18点を数え、そのうちの12点に年号が認められます。それらを列挙すると、弘安9年(1286)、正和4年(1315)、分保元年(1317)、正慶元年(1332)、建武2年(1335)、暦応2年(1339)、永徳2年(1382)、永徳4年、至徳2年(1385)、応永2年(1395)、宝徳元年(1449)、文亀3年(1503)で、「志村延命寺板碑群」(区登録文化財)と同様、比較的古い年代のものが多く含まれています。
これらの資料は、泉福寺の歴史を伝える遺物であり、赤塚地域、及び区の中世の歴史を解明するうえで重要な資料です。
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境内にずらっと並んだ貴重な板碑がある。秩父産の緑泥片岩でつくられているのだろうか。

【関連記事】
■ボクらのホームグラウンドの前谷津川<前谷津川と宮下大山不動明王> 2022年1月19日加筆
■ボクらのホームグラウンドの前谷津川の支流 梶谷津川
■前谷津川の支流 梶谷津川の源流付近と暗渠蓋
■スケートボードのホームグラウンド 前谷津川緑道(グリーンベルト<西台・高島平> 一時姿を現す消えた川
■前谷津川支流 不動通り 中尾不動尊の谷
■前谷津川(前谷津川緑道) <赤塚しのがやと公園(篠ヶ谷戸)>と<橋ぎわ>
■板橋区 赤塚不動の滝と大根
■板橋区赤塚 不動の滝<記念物(史跡)> 令和3年
■板橋区赤塚 板橋区No_139遺跡 古墳<塚>の上に造営された八幡神社
■湧き水のビオトープ<赤塚トンボ池> 赤塚不動の滝向いの崖からの湧水<赤塚公園斜面の湧水> 2022年1月15日<赤塚 不動の滝>
■大塚原(板橋区赤塚一丁目、赤塚新町一丁目) 赤塚大塚原遺跡 <消滅した八つ程の大きな塚>と<地名 馬喰谷戸> 赤塚・成増での母との思い出と激安洋品店<のとや>での良品発掘

■板橋区新河岸三丁目 早瀬前遺跡 鎌倉街道 早瀬の渡し
■板橋区大門 都立赤塚公園 鎌倉街道 しったり坂
■板橋区赤塚 鎌倉古道

■高島平の名の由来 高島流
■文京区向丘 大円寺 高島秋帆の墓
■“青天を衝け” 高島秋帆 松月院<高島秋帆先生紀功碑>と西洋砲術の演習地 徳丸ヶ原

■板橋区前野町 <常楽院年不詳阿彌陀三尊種子板碑(じょうらくいんねんふしょうあみださんぞんしゅじいたび)>と板橋区小豆沢 <龍福寺建長七年板碑>

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2023 10/24 『板橋区大谷口上町 <上板橋三池/上板橋村三溜池>のひとつ 石神井川 エンガ堀支流 大谷口の溜池を埋め立て建てた<大谷口バラック> 木造密集地域跡』

前記事から引用ーーーーー
■王子駅西口の石神井川氾濫と<石神井川(音無川)沿いにあったバタ屋(バタヤ)部落>・<板橋区大谷口上町・大山と豊島区要町・千川のバタ屋部落 ースラム・貧民窟 バラックー>

・・・・このような部落や違法なバラックは板橋区大谷口の石神井川近くや大山、豊島区要町・千川の千川上水付近にもつくられていた。
大谷口の木造密集地域のバラックは石神井川の支流のエンガ堀のさらに支流であった溜池を埋め立てて造ったという。
大谷口の木造密集地帯はつい20年弱前まで存在していたこともよく知られていて、かつての溜池の源泉である湧水が今も健在。(板橋区役所 湧水地点一覧より:板橋区大谷口上町61番 しみだし程度)

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第2表 東京都区部における「バタヤ」地区の概要
区 所在区域 住居数 世帯数 人口 面積(m2) 不良度 地区類型 土地特徴 形成時期

豊島区要町 236 217 536 1,400 A 仮小屋適正 1954 年
板橋区大谷口町 24 24 106 1,357 C 仮小屋適正不明

※ジオグラフィカ千里第1 号(2019) <戦後東京,「バタヤ」をめぐる社会と空間 本岡拓哉>より引用
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この地域は以前から問題視されていた。
板橋区による住宅地区改良事業によって立ち退きにあった人々は改良住宅へと入居し、木造密集地帯は消滅し、区画整備や道路整備も行われて完成入居となったのは2007年とのこと。写真は2023年10月に撮影。

地図1枚目、溜池が描かれているのがわかる。これが大谷口の溜池と呼ばれ、溜池の谷が大谷口地名の由来とされ、大谷道沿い(鮫洲大山線)の“さんみせ(三軒の店)”裏の谷頭部分からの湧水は滝のように落ちてこのような急峻な谷をつくった。
戦後、家を失った人々がこの大谷口の溜池の谷に集まり、溜池を埋めて崖沿いにぎっしりと木造住宅を建てて密集地域が造り、いつしか部落とよばれるようになった。
※かつては上板橋村には溜池三ヶ所ありと書上帳などに記され、<上板橋三池>と呼ばれる大谷口の溜池・向原の溜池・小竹の溜池あった。大谷口の溜池は面積1396坪あり、農業用水として使われていた。谷頭には白竜弁財天(石造)が祀られていが、大谷道(鮫洲大山線)を挟んだ向いの大野さんの屋敷へ移されたという。

写真上から1−2枚目、二股の左の細い道の崖の左右に住宅が密集していた。そこに住んでいた人々は2枚目の左に建てられた<かみちょう住宅>改良住宅へと入居したという。
写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖を撮影。

写真3枚目以降、谷の底へと続く道から崖で、ここに木造住宅がびっしりと建っていた。火災が発生したら消防車も入れないために、あっという間に燃え広がって大規模火災になり、多くの人命が失われることになっただろう。そのような地域はたくさんあり、東日本大震災以降に、今まで眠っていた都市計画道路などの計画がぐっと動き出したように思われる。

写真上から11枚目以降、写真1枚目の二股の右の道を奥から撮影。
長い年月と多くの予算をかけて整備されたことがわかるし、居住者や自治体も大変だっただろう。

整備前の状況は検索を。

今から45年くらい前、大山に住んでいた私は向原に行く時に、もうひとつ先の谷(地図の西側のもっと深い谷)を通って行くようにと言われたことがあったとうっすら記憶している。あそこは人がたくさん住んでいるから騒ぐと迷惑になるからね、とのことだったと思う。
当時、同じ施設で生活をして育った幼なじみ家族が向原団地へ引越し入居してよく遊びに行っていた。そのお家では、ハッピーロード大山にあったおもちゃ屋のヨシオカヤ(吉岡屋)で入手したロボダッチのプラモデルを、TVから流れているマッチの<ギンギラギンにさりげなく>を聞き、変で賑やかな唄だなと思いながら、手脚が細くボディが丸い奇妙で可愛いキャラをいくつも製作したのをよく憶えている。眼帯をした?海賊のキャラとか島になっているものもは高額ゆえに手が出なかったと思う。
いつだったか15年くらい前だったかなぁ...どこかのお店でロボダッチのプラモを見かけ、今見ると何ともちゃちい作りで笑ってしまったのを思い出した。

※地図の西側のもっと深い谷は急なV字になっていて、チャリンコでノーブレーキで駆け下りて惰性でどこまで上れるかという危険な遊びをよくやっていた。

【関連記事】
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■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋<王子スラム・王子バラック跡>)のトンネル跡の湧水
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 王子スラム(王子バラック)と岸二町内案内図<東京第一陸軍造兵廠の遺構 土手に掘られたトンネルの出入口に使用されていた石のアーチ>
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 音無川(石神井川)<音無橋と音無渓谷 改修前の王子大堰>
■<昭和二十年 東京地図> <続・昭和二十年 東京地図 周縁のこと> ー終戦後40年前の東京 そして今から40年前の東京ー 王子スラム(王子バラック)や池袋二丁目 三業町<百軒店>(三業地)など

■板橋宿 上宿跡はスラム街(貧民窟)になった岩の坂(いやな坂) 板橋貰い子殺し事件

■文京区小日向 鼠坂<森鴎外の小説「鼠坂」の舞台となった坂> 鼠坂下は江戸有数の盛り場<岡場所(私娼窟)> 昔は一種の貧民窟(スラム街)

■昭和50年代初頭の頃のハッピーロード大山商店街・遊座大山商店街(板橋区民館通り商店街〜大山サンロード)と町並み(大山町・大山西町) ライフアップ 大丸百貨店・大山東映(映画館)・ヨシオカヤ(おもちゃ屋)
■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標
■石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所

■千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
■千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔

■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2022 3/1 『旧中山道<種子屋街道のあゆみ 滝野川三軒家の町並み 日本農林社のあゆみ>』

旧中山道沿い、明治通りとの交差点近くに株式会社日本農林社があり、最近<種子屋街道のあゆみ 滝野川三軒家の町並み 日本農林社のあゆみ>の紹介・案内板が設置された。
種子屋が集った街道としての歴史を、多くの人に知ってもらえることと思う。
練馬大根の名は広く知られているところだろう。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーー

<種子屋街道のあゆみ >
慶長年間(17世紀初頭)中山道が整備され、板橋宿が設置される
明暦3(1657)年 巣鴨庚申塚の庚申塔が造立される
滝野川三軒家(榎本孫八・越部半右衛門・榎本重左衛門)が種子屋を始める
弘化元(1844)年 榎本留吉商店(のち東京種苗)が開業する
嘉永5(1852)年 丸政・鈴木政五郎商店(現在の日本農林社)が開業する
明治18(1885)年 日本鉄道品川線(現在の埼京線)が開通し、板橋駅が設置される
明治36(1903)年 日本鉄道豊島線(現在の山手線)が開通し、巣鴨駅が設置される
明治44(1911)年 王子電気軌道(現在の東京さくらトラム)が開通し、庚申塚停車場が設置される
大正5(1916)年 滝野川の種子屋が中心となり、東京種子同業組合が発足する
大正9(1920)年 帝国種苗殖産株式会社(日本最大の種苗会社)が開業する
大正15(1926)年 大正大学が開校する
昭和7年(1932)年 豊島区が誕生する

<滝野川三軒家の町並み>
滝野川三軒家とは、中山道の種子屋の草分的な存在である
榎本孫八・越部半右衛門・榎本重左衛門の三軒に由来し、後にこの地域(現在の滝野川6丁目)の地名ともなりました。
種子屋は、初め農家の副業として付近の畑で採種した野菜の種子などを販売していましたが、明治以降に規模を拡大し、全国の良質な種子を集めて販売する卸売業者へと成長します。
滝野川は日本有数の種子の集散地となり、大正時代には約20店の種子屋がありました。
右の町並図は、滝野川でカメラ店を経営していた榎本眞一氏が制作したものです。2003年頃の建物の写真を交えながら、かつての「種子屋通り」の面影が再現されています。 榎本眞一氏制作

<日本農林社のあゆみ>
日本農林社は、嘉永5年(1852)年に丸政・鈴木政五郎商店として創業しました。同商店は、この地域の特産品であったダイコン・ニンジン・ゴボウなどの種子を、中山道を往来する人々へ販売していました。明治に入り、鉄道などの新しい交通手段やカタログなどの通信販売を活用して、日本全国の種子を集めて販売したほか、西洋野菜の種子も積極的に取り扱うなど、次第に事業を拡大していき、後に社名を大日本農園と改めます。
第二次世界大戦中は日本農林種苗として種子の販売等を行っていましたが、戦後に解散、昭和27年(1952)年に日本農林社として再発足し、現在に至ります。以降、F1品種の開発に取り組む一方、伝統的な東京野菜の継承も行っています。

上段・中段:鈴木政五郎商店の種子カタログ
 明治34年(1901)年 茨城県立歴史館「平井幸夫家文書」
下段:日本農林社が発行していた種子カタログ
 昭和31〜34(1956〜59)年
 豊島区郷土資料館「榎本泰吉家文書」
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旧中山道には今でも出桁造りの商家がまだ多く残っているが、30年〜20年位前までは、旧商家も点在して残っていた。しかし次々と解体されていった。維持するのもとても大変だと思うが、旧街道の名残として長く残って欲しいですね。

榎本眞一さんが制作された<ようこそ滝野川三軒家へ>の町並図の拡大はこちら

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