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2021 11/16 『蓮根川緑道に白い大蛇の遊具があるのはなぜか 志村の原 消滅した川島の丸池』

蓮根川緑道の白い大蛇の遊具があるのはなぜか。

蓮根川緑道は地元ではヘビ公園と呼ばれている。
それは白い大蛇の滑り台的な遊具のようなオブジェが設置されているからで、ここにちびっ子が群がり乗って遊んでいる。

いたばしの昔ばなしより引用ーーーーーーーーーー
一〇、丸池の大蛇

むかし、中山道の志村橋の近くに丸池という大きな池がありました。草が一面おい茂った中に、青い水をたたえた丸い形をした池でした。その頃、この付近一帯は灌木やかやなどが生えた荒地で淋しい
所でした。近くに氷川神社の小さなやしろがひとつありました。
さて、この丸池には一匹の大蛇が棲んでいました。大蛇の胴のまわりは三十センチもあり、長さは五メートルもある大蛇でした。大蛇のほんとうの棲み家は早瀬の「ひじりがはま」というところで、その沼の主だったということです。大蛇はそのひじりがはまとこの丸池の間をいったりきたりしていました。長雨が降って大雨が出ると、水といっしょに大蛇もこの丸池に流れてきて、しばらく丸池でくらします。水がひけてくるとまたもとのひじりがはまへもどって行ったということです。だから丸池からひじりがはままで蛇がとおったあとが時々見られたそうです。蛇がとおったあとは三〇センチ位の巾の、くねくねと曲がった道ができていました。その道は草やかやがたおれていて、大蛇の通ったあとだろ、すぐにわかったということです。
・・・割愛・・・
こののち丸池にはもう大蛇の姿は見えなくなったということです。
今では、ひじりがはまもこの丸池もうめてしまい、むかしのすがたをしのぶことさえできなくなりました。しかしその底には、あの大蛇が、しずかに眠っているのかも知れません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この蓮根川緑道は、環状八号線が通っている若木付近の湧水を水源として新河岸川に流れ落ちる川跡で、現在は暗渠となり緑道として整備された。
暗渠となった川跡の蓋には遊具が置かれることがかつては多かったようで、この白い大蛇もそのひとつであるが、一般的な暗渠跡遊具としては面白い姿で大きなものではないだろうか。
この白い大蛇の遊具の由来は、上記の<いたばしの昔ばなし 丸池の大蛇>と思われる。
徳丸田んぼの東側の新河岸川付近(志村橋付近)にあったという丸池と、西側の端の早瀬地域の沼の低地を行き来していたという大蛇だが、低地や崖地のあちこちに棲んでいた蛇をモティーフにして、蛇は怖いから気をつけるんだよということを人々、特に幼い子に大蛇と誇張して教え伝えているのではないかとも思う。
蛇や狐にまつわる伝承はどの地域も大変多いですね。
狐狗狸・・・きつね、いぬ(てんぐ)たぬきを初め、蛇など眷属を題材にした伝承は可視化させやすく伝えやすいのだろう。

この丸池は志村橋の下流一つ先の現 平成橋あたりにあったが、荒川放水路開削に伴う荒川の流路変更、新河岸川の整備により昭和初期、新河岸川の底に吸収され消滅したようだ。

台地から徳丸ヶ原へと流れ着いた蓮根川は出井川や前谷津川の流れも利用した用水路と共に徳丸田んぼを潤していた。それは現在の高島平一帯に、100mピッチ位で用水路が東西南北に引かれ、現在の西高島平や新高島平から坂下地域まで用水路がつながっていた。
実際に蛇があっちからこっちへと移動していたのかもしれないですね。
蓮根川緑道の二匹の白い大蛇は、坂下の丸池の主とひじりがはま(早瀬)の沼の主が対峙している光景を表現しているのかもしれない。

※下から2枚目の地図、“いたばしの地名”<成増村より小豆沢村に至る荒川縁十三ヶ村絵図>より引用 (2022年6月14日加筆)

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2021 11/9 『板橋区南常盤台 天祖神社の西にあった<猫塚>と<狐塚>、小茂根四丁目の<猫塚(ねこ塚)>、大和町(根村)の<狐塚>』

地図の黒丸部分に天祖神社がある。
板橋区立郷土資料館のtwitterより、「上板橋西方長命寺北より天祖神社の一 二丁の処に畑中に見ゆ」 <猫塚>と<狐塚>があったという。

天祖神社のご由緒より引用ーーーーーーー

天祖神社は、旧上板橋村の産土神として古くからおまつりされている神社です。

「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」(大田南畝『武江披砂』外編)

寛政9年(1797)丁巳4月17日、江戸時代の文人・大田南畝(おおたなんぽ)は、当社を訪れた時のことをこのように記しています。「石橋」とは石神井川にかかる現在の「下頭橋」(げとうばし)を指します。また、明治5年まで当社は「神明宮」という社号で、「神明さま」と称されていました。

上板橋村は、板橋地域のなかでも古い村のひとつでした。江戸時代以前の古道である川越街道が村内を通っていることや、付近一帯が豊島氏によって開拓されたことをなども考えると、鎌倉から室町時代にかけて集落が形成され、村人達によって当社が創建されたかのではないかと推測されます。伊勢の神宮、すなわち内宮の「天照大神」と共に、外宮の「豊受大神」が同殿にまつられており、末社には神宮の別宮の一つである「月読神」をまつる「月読社」があり、伊勢の神々への信仰が色濃くみられます。

当社の創建に関する二つの伝承があります。
一つは、後深草天皇(鎌倉時代)の頃に、伊勢神宮でお祭りされている天照大御神を勧請したというもの、もう一つは上板橋村字原(神社周辺の地)に天照大御神のお姿が現われたという「影向跡(ようごうあと)」があって、そこに「伊勢神社」を勧請したというものです。(『北豊島郡誌』)この「伊勢神社」は現在境内に「末社」としておまつりしていますが、この影向跡がどこにあったのかは詳らかではありません。

かつては村内のどこからも、うっそうとした神社の杜が見えたといいます。この神社を地形からみると、石神井川に南面する緩やかな丘(標高32米)に位置しています。古代からこの川の近くに人々が住んでいたことを考えると、今のような神社の形態が整えられる以前からここは聖地と考えられていたかもしれません。

さて江戸時代、当社の境内はどのようであったのでしょうか。大田南畝の地誌『武江披砂』の続きにはこうあります。

「古杉老松を交えて大なる柊(ひいらぎ)もあり、宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居神さびたり」

昭和11年、東武鉄道によって分譲された「ときわ台」の地名は、常磐なる松―当社のこの「老松」にちなんだといわれています。柊は当社の神木です。このような木々に囲まれた神社のたたずまいは、江戸時代にはすでに「神さび」を感じるようなものであったことがわかります。神社の入り口は現在よりももっと石神井川よりで、約200m近くの参道があり、松・杉を主体とした樹木が繁茂し、昼でも暗いと言われる程でした。

時代の移り変わりとともに、現在では境内地も約半分になりましたが、駅の付近に位置しながら、いまなお境内には、かつての杜の面影が色濃く残っています。
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<猫塚>と<狐塚>境内にあったとも書かれている書物もあるが、「上板橋西方長命寺北より天祖神社の一 二丁の処に畑中に見ゆ」という記述より、境内にあったのだろうか、もしくは神社境内よりも数百メートル西にあったのだろうか。
戦前、昭和11年の航空写真を見ると、木々が生い茂った境内の拝殿のすぐ西にあるようにも見えるが、その先の西の畑の中に木が生い茂った塚のような物も見える。

天祖神社東には向屋敷遺跡があり、弥生時代や古墳時代の住居跡が見つかっている。
上記のご由緒にも記載されているように、石神井川の近くに人々が集り、集落となり遺跡となったことからも、聖地であったと考えられますね。
石神井川をもう少し上流に進むと、大変有名な茂呂遺跡もあり、下流に進むと稲荷式土器で有名な稲荷台遺跡もある。また、この天祖神社の南側は東山と呼ばれ、長命寺が板橋城があったのではないかという説もある。

いたばしの昔ばなしより引用ーーーーーー
五三、二塚のはなし

割愛・・・板橋にはこの外にも「塚」の言い伝えは方々にあります。
一夜塚(中台)・狐塚(大和町)・魚藍塚(小豆沢)・首塚(小豆沢)・ねこ塚(南常盤台)・狐塚(東新町)・荒れ塚(赤塚)・地蔵塚(桜川)・高塚(熊野町)・馬塚(向原)・法眼塚(南町)・馬塚(南常盤台)ねこ塚(小茂根)・熊野塚(志村)・安弘塚(桜川)等々・・・・。
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天祖神社境内にあったと言われている<狐塚>と<猫塚>は上記の記述によると、<ねこ塚(南常盤台)>と<馬塚(南常盤台)>と思われるが、<狐塚>ではなく<馬塚>となっているのは文字の間違えか。もしくは南常盤台の隣り町が東新町なので、狐塚(東新町)と間違えているのだろうか。古道である川越街道を行き来した馬を供養した塚が南常盤台にあったのだろうか。
また、上記のねこ塚(小茂根)は小茂根四丁目にある<猫塚166>
ちなみに二塚のはなしは、赤塚にあった塚のことが書かれている。また、赤塚の名の由来は塚があったことから。

さらに狐塚(大和町)について、現在の環七と新中山道の交差点のあたりは昔は大きな山で木がたくさん生おり、この山に狐がたくさん住んでいて、死んだ狐を弔ったことから、この狐塚の起こりだと書かれている。
狐塚(大和町)は、昭和の初めころまで残されていたそうだが、昭和53年発行当時のこの本には、「今は株式会社クラウンの鉄筋工場の敷地になってしまって跡かたもありません。」と書かれていたので調べたが、この鉄筋工場がどこにあったか分からなかった。
いたばしの昔ばなしに掲載されている地図には一番下の地図の赤丸部分に印が付けられていて、この一帯をかつて根村と呼んでいた。
石神井川へ傾斜している土地には根村遺跡があり、最後の将軍 徳川慶喜が明治にこの付近を写真(写真集 将軍が撮った明治)に撮っているのを見ると、大きな木が生い茂って山のようになっているのがわかる。撮影場所はちょうど根村遺跡の南にある日曜寺あたり一帯と言われていて、写真には日曜寺門前を流れる根村用水にかかる石橋の欄干も写っている。

どの塚も時代の流れで、平削されてしまい、残っているのは僅かであるのは残念ですね。

■板橋区南常盤台 天祖神社の西にあった<猫塚>跡にすむネコ

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2021 11/2 『食べる前に走れ、食ったら走れ』

生活にランニングを取り入れて12年半くらいになる。
何年か前までは月平均で100kmくらい走れていたけど、今は50km程に減った中、5月は130kmほど走れた。
走らない人にはよく分からないと思うが、走っている人にとって月平均で100kmくらいはたぶん普通のことのような気がする。よく走っている人だと200〜300kmだったりするし。周りに走っている人がほとんどいないので、ランニングのあれこれについてはネットで知ることが多い。日々町を走れるだけでとても気持ちが良いのでレースもほとんど興味がない。というか、日々走れるだけで十分で。
飲むのも食べるのもたいへ好きなので走っているとも言える。今は高校生の頃よりも体重は少なく、脚の筋肉、特にモモの裏のハムストリングスとふくらはぎがとても発達した。
最近お気に入りのラーメン屋さんが2軒あって、去年見つけた味噌ラーメン屋さんがとても美味しくてたまに食べに行っている....スープを一口、「うぁ〜やっぱりうまいわぁ〜」と自然に声がもれている自分に気づく。
ラーメン業界のことはよく分からないけど、これは純連、純すみ系、すみれと言われるお店の系統で、とにかくとてもおいしいんです。先日、肉まみれカレーというのがあって、テイクアウトしてみた。7−8割お肉のような感じで、これまたとてもおいしかった。

『食べる前に走れ、食ったら走れ』

走った後に少しひっかけて食べに行く.....調味料ではないけど、食べ物を美味しくする最高の調味料。

最近日中は暖かい。
そしてまだタンクトップで気持ちよく仕事をしている。
笑顔があふれる冬がきますように。
家族が穏やかに過せて、健康で幸せでありますように。

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2021 11/2 『神田上水石樋の碑』

地図の青丸部分、白山通りと春日通りの交差点<春日町>に神田上水石樋の碑がある。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーーー
神田上水石樋の碑

ここに使われている石は、江戸時代に神田上水で使われていた石樋の一部で、昭和六十二年、外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものです。
神田上水とは近世都市の江戸で最初に整備された上水道であり、徳川家康が江戸入りと同時に造らせたと言われています。
水源となる井の頭池の湧水を、大洗堰(現在の文京区関口)を経てから水戸屋敷(現在の小石川後楽園一帯)に入れ、そこから先は暗渠(地下の樋)で通しています。
この暗渠で使われていたのが、石樋(石で作った樋)です。なお。お茶の水坂からは、掛樋(木で作った樋)で神田川の上を横断させて、神田・日本橋方面に飲料水として給水されていました。
文京区
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水戸屋敷へは西から神田上水、北からは谷端川(水源である粟島神社の池には千川上水を引いていた。地図一枚目の文京区役所と礫川公園の間の道が谷端川跡)が流れこんでいた。
地図上から2枚目、絵図の黒丸部分、神田川の大洗堰から取水した水が神田上水で巻石通りと呼ばれている。

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■椿山荘 古香井

■文京区春日(小日向) 徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
■印刷博物館<武士と印刷> 徳川慶喜終焉の地(文京区春日(小日向))
■文京区春日二丁目(小石川小日向第六天町) 徳川慶喜邸と新坂(今井坂) “徳川おてんば姫” 井出久美子
■巣鴨に住んでいた徳川慶喜 明治時代の巣鴨邸と江戸時代の巣鴨
■切支丹屋敷跡地からシドッティ 切支丹坂 2022年1月31日写真追加・加筆
■目白台 富士見坂 台地の屋敷(田中角栄邸・山縣有朋邸・近衛篤麿邸・徳川義親邸
■一橋徳川家 屋敷跡の千石緑地
■一橋徳川家 屋敷跡の徳川マンション

■谷端川(源泉から池袋本町)
■神田川に注ぐ谷端川 市兵衛河岸

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2021 11/1 『さようなら 東急ハンズ池袋店 母との思い出の町』

中学生の頃から通い続けていた東急ハンズ池袋店が撤退した。
サンシャイン通りっていうんだっけかな、あの通りは新型コロナウイルス感染症のまん延でもっていくつもお店が撤退して、歯抜けのような状態になっている。
文房具用品、消耗品をハンズで買うことがほとんどだったので、これからとても不自由になる。これでまた人がやってくることが少なくなるような気がするがどうだろうか。
ただ、コピーで『また会いましょう、池袋。』となっているので、代替店舗が現れるような気がしないでもないが。
ネットでぽちりも楽だけど、店舗に行くことって楽しいから寂しいですね。
東急ハンズで最後に買ったのはボールペン替芯でした。

池袋は今でもよく行く町。
40年前、仕事が忙しい母に、日曜日は池袋の地下街で立ち食いのカレーを食べさせてもらって、その後は映画を観させてもらうのがとても楽しみだった。
今思うと大変だったと思う。いらいらもしてたと思う。
グダグダした自分のほっぺをバシっと平手打ちされ、ふてくされた自分は3kmの道のりを歩いて家に帰った。
先に戻っていた自分、 家に帰ったきた母は怒りや心配ななんとも言えない態度だった。後悔した母は、町中を探しまわったと言っていた。
いつだったか「もう二度と手をあげない」と誓ったと言っていた。

そんな母とはもうそれほど長くは居られない。
母には変わらずにできることはたくさんしたいと思っている。
池袋は母との思い出の町。

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