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2020 7/28 『板橋区大山西町の名も無き川 用水路(千川上水からの分水 中丸川支流)』

今から40年程前、写真上から1〜4枚目の敷地(黒いシート敷部分)に建っていたN倉荘という住宅の一階に住んでいた。
関西圏から大谷口〜成増〜大山町へ、そして大山西町へと引っ越し、自分の部屋は無かったが、家族三人で懸命に生きていた。
その当時、自分達家族は地域の皆様の温かい気持ちにお世話になりながら生活をしていて、特に自分は他者の家庭で育ったようなところもあった。感謝しかありません。

さて、この敷地の隣地境界線(蓋がされているが、当時は開渠だった)には、うちではドブ川と呼んでいて、常時水が流れていて、ジメジメと湿気が酷かったことを今でもはっきりと憶えている。
水に足が浸からないようにジャンプして隣地の壁によじ登って遊んだりしていた。
夏になるとヒキガエルやトノサマガエルなどがやってきたりしていた。
暗渠ではお馴染みの野良猫も何匹もやってきて、うちの基礎の中に住みついたこともあった。

何年か前に、このドブはなんだったのだろうかと、ひょっとしたら用水路や川の跡だったのかなと、ふと気になって調べてみた。
というのも、川越街道から板橋第二中学校〜交通公園〜千川上水にかけて谷底のような地形になっていたことを憶えていたから。
地形図や昔の地図を見てみると、黒い四角部分は浸食されて低くなっていることがわかり、江戸〜明治時期の地形図を見ると、実際に水の流れが確認できる。
調べていくと、この水の流れは千川上水からも分水した中丸川の支流であることがわかった。
住んでいた40年前には単なる排水溝だったのだろうが、地形的にここは低いので、雨水や住宅からの雑排水が流れこんでいたのだろう。

1〜12の番号を記載している地図の一番下、2を見てみるとわかるかと思うが、奥に見える横断歩道部分が一番低く、奥に向かって坂になっている。

5〜11の番号は実際の水の流れではないが、この支流は住宅と住宅の境界線を通って流れているために流れを追えないために、ほぼ支流に沿った流れとして掲載。

12の黒丸部分には千川上水の境界石が保存されていて、この道がかつて流れていた千川上水跡になる。

A写真、開渠となった中丸川支流の存在が今でも確認できる。
知らない人が見ればただの排水溝だが、実際は川の名残である。
この先の下流は、板橋第二中学校の敷地を通り、中丸川へ合流していたようだ。

かつての川跡のほとりに住んでいたというのも、元々水にご縁があったということだろうか。

【関連記事】
■板橋区大山西町の用水路
■千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
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■千川上水 喜内古屋水車跡
■千川上水 水神様 <大山西町発展史>
■豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑 千川上水の放流(谷端川下水道幹線)
■北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)
■千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔
■千川上水から東京第二陸軍造兵廠板橋製造所へ取水した分水口と水路跡
■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標

■地元のお話 わたしたちの大山町会史 補助第26号線

■上板橋宿と大山福地蔵尊
■町民を癒し見守る大山福地蔵尊

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2020 7/27 『GARMINサーバーダウン中』

何日か前からガーミンのサーバーがダウンしてて、サーバーにある自分のデータへアクセスが出来ない状態が続いている。
しかし、計測も出来るし、記録は時計に保存出来るので自分は全然困らない。SNSで投稿ができないのはしょうがなし。
しかし、蒸暑くて、マスクも暑いし呼吸がしにくいので、3kmでアップアップな日々が続いている。
例年、7−8月は暑過ぎなのであまり走れないけど、この数年で体力が低下してきているのかな、どうなんだろう。
どうにもこうにもマスクがしんどい(熱がこもって息がしにくい)ので、スポーツにも対応しているマスクをあれこれ探しているが、自分が欲しいのは他者も欲しいので、入手出来ていない。。

マスク着用は最低限のマナーですね。
マスク大嫌いで、今までほとんど使ったことがなかったけど・・・
自分のfacebookの過去のポストを見返すと、1月からこのウイルスのことが気になり、2月にはとても恐ろしすぎると表現していた。
はやくマスクをしないでも大丈夫な世になって欲しいが、もうそれは難しいのかもしれないですかね。

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2020 7/25 『台東区池ノ端 境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸 暗闇坂』

写真の青丸部分、東京大学の裏、上野台地と本郷台地の谷に境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸がある。
井戸がある道は、言門通りからアメ横方面に行く抜け道としても有名な道で、長く続く坂は暗闇坂(黒い四角部分)と呼ばれている。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーーー
境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸

境稲荷神社の創建年代は不明だが、当時の伝承によれば、文明年間(一四六九〜一四八六)に室町幕府第九代将軍足利義尚が再建したという。
『境稲荷』の社名は、この付近が忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、かつての芽町(現、池ノ端一・二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
社殿北側の井戸は、源義経をその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。
一時埋め戻したが、昭和一五年に再び掘り出し、とくに昭和二〇年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。
井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。
平成六年三月
台東区教育委員会

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暗闇坂(くらやみざか)

本郷七丁目と弥生町一丁目、二丁目の境通りを東南に折れ、東大の弥生門前へ下る坂で、東大は旧加賀藩邸跡、農学部は旧水戸藩邸跡であり、大大名の広大な屋敷の間は木暗い道であったろう。
正しくいえば、この坂は加賀藩邸北裏の坂路であるが、林泉の美を尽したであろう大諸候の屋敷地も、封建制度崩壊後は荒れるにまかせ、東京大学が出来はじめたころは寂しかったようで、馬場孤蝶の「古き東京を思ひ出て」は次のように回顧している。

明治十二三年ごろは大学の構内には、医師即ち当時は医学部といってゐたものがあったばかりで、此の旧加賀邸の赤門寄りの方は茫々たる薄原(すすき)で、その草の間に、昔の井戸の跡なのであらうか、黒く塗った木を框にして、危険除けの目印にしてあるのが幾つとなく見えるのがひどく寂しく感ぜられた。
門を入って右手寄りには、椿の一杯生えた円形の小山があって、冬になると、よく土鳩が、かしはの腹を木の間から見せた。
そこは加賀騒動のなかの浅尾という悪女中を蛇責めして埋めして埋めたところだといふ俗説があった。けれどもそれは古墳の跡らしかった。
十七八年ごろ発掘したが、石垣のやうなものがあったのみで、別に何も出て来なかった。
何うもその昔一度発掘したことがあるらしいといふ鑑定であったとか聞いた。
その後明治二十二年になって、暗闇坂の南側の弥生町から根津小学校あたりへかけて大きな貝塚群が発見され、これまでの縄文式土器とことなる土器が出土したので、土地の名をつけて「弥生式」土器とよぶようになった。

『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用
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井戸の写真は2014年頃・不忍池の写真は2020年1月。

弁慶鏡ヶ井戸がある場所は、上記にも書いているが、本郷台地と上野台地の境にあり、すぐそばには不忍池がある。
かつて縄文時代の石神井川(古石神井川)はこの不忍池に注いで、隅田川に流れていたことが分っている。
現在は地下水を汲み上げて水を満たして不忍池は維持されているとのことだが、かつては湧水も豊富だったという。
そういう地質ゆえに、弁慶鏡ヶ井戸も名水として地域の人々に愛され大切にされたのだろう。

【関連記事】
■石神井川 河川争奪 音無渓谷
■かつての石神井川
■霜降銀座 古石神井川と谷田川 田端八幡神社 谷田川に架かっていた石橋
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■旧石神井川(古石神井川)の跡 飛鳥山・滝野川付近
■古石神井川の支流 谷戸川(谷田川・愛染川)源流の長池跡
■愛染川と枇杷橋(合染橋)跡
■古石神井川の流路 逆川
■不忍池(古石神井川、谷田川・愛染川)
■谷田川に架かっていた橋の親柱(芥川龍之介墓所 慈眼寺)

■駒込富士神社と古墳群

■弥生式土器の発見地

■加賀藩中屋敷跡 旧駕籠町
■加賀藩と黒作り
■加賀藩江戸下屋敷 奥山正 著 人んとこ荒らすな
■加賀藩前田家の駕篭
■加賀藩上屋敷跡 東京大学 赤門
■加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚(平尾一里塚)跡
■加賀藩下屋敷にあった山々 現存する大山(築山)

■旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 左甚五郎作の龍と加賀藩下屋敷の裏御門だった山門
■旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 寛文の庚申塔と山門

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2020 7/22 『板橋区小豆沢 御手洗池(御手洗不動旧跡)』

写真の青丸部分、武蔵野台地の崖線下に、湧水池の御手洗池がある。
この御手洗池のそばには他の池もあり、崖線からはいくつもの湧水がある。
地図の左側へ行くと、国道17号線が南北に通っていて、国道17号線の左に続いている武蔵野台地の崖線(清水坂や志村城址跡付近)からもいくつも湧水があることでも有名なので、今度紹介したいと思う。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーーー

御手洗池(御手洗不動旧跡)

御手洗池は、江戸中期に江戸周辺で爆発的に流行した富士・大山詣の道者たちが、旅立ちにあたって心身を浄め、水垢離をした禊場で、かたわらには石造の不動尊がおまつりされていました。
ところが、明治以降鉄道などの交通機関が発達して手軽に富士・大山詣ができるようになると、この禊場は利用されなくなっていき、やがて荒廃していきました。
昭和三十七年、不動尊は龍福寺の山門脇に建立された不動堂へ奉遷されました。
近年地元の方が雑草を刈るなどの整地を行い、御手洗池を復元しました。
その際、池のかたわらには新たにお堂を建立し、金銅の不動尊と聖観音をおまつりしました。
この御手洗池は、龍福寺の秘仏薬師如来が出現したという伝説がある池です。
また、古くはここの水が眼病に霊験があると信じられ、眼を病んだ人々が訪れていたといいます。
平成十七年三月
板橋区教育委員会

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2015年2月撮影

現在は水質に問題があり、目や口に入れないでくださいと、注意書きが貼ってある。
下から2−3枚目、武蔵野台地の崖線で、台地の上にある龍福寺や小豆沢神社行くには急な階段を上らないとならない。
1番下の写真、武蔵野台地の上に移設された御手洗不動尊。

【過去記事】
富士・大山道の道標と庚申塔 下練馬大山道の道標と東高野山の道標
練馬区 ふじ大山道
石神井川の大橋たもと 不動明王座像と敷石供養塔 安全の祈願
板橋区 赤塚不動の滝と大根
板橋区 出井の泉跡(出井川)

江古田川 不動橋と垢離取不動尊

板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿
板橋志村、この地に生きて 大野邦雄 遺稿集
戸田橋の親柱と武蔵野台地の崖線

武蔵野台地東部(十条台地) 北区岸町2丁目の湧水
武蔵野台地東部(十条台地) 北区中十条3丁目 荒澤不動(荒沢不動)の湧水と馬坂
武蔵野台地東部(十条台地) 北区中十条3〜4丁目の湧水と清水坂

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2020 7/21 『加賀藩下屋敷にあった山々 現存する大山(築山)』

航空写真の赤丸部分、加賀公園にある築山は、かつてこの地域一帯が加賀藩下屋敷内にいくつもあった山々のうちのひとつで、約25m位の標高であるが、低地にあるので大きく目立つ存在で、今もその当時の姿を保っている。

御殿の北方、石神井川と大池に挟まれて大山があり、これが現在の加賀公園にある築山で加賀藩下屋敷跡の唯一ともいえる遺構(遺跡)。
屋敷の中には大山以外にもいくつもの山がある。
御殿の東に玄番山その先にはむじな山(むじなはアナグマのこと。たぬきなど。)、大山東に足山、北に太郎兵衛山(ある絵図には太郎原山とも記されているようで、かつての地主の名であるかもしれないとのこと。現在家政大学及び愛誠病院の敷地内にあり、二五米の標高をもつ。)、石神井川の上流には向山・松茸山・をぐら山がある。
向山のあたり一帯は茅場であってよい狩猟場であった。
川あり池あり茅場ありで、加賀藩史料によると、しばしば猪鹿狩りや放鷹などが行われている(貞享三年<一六八六>二月、享保四年<一七一九>三月、寛政五年<一七九三>一月。)
大池の西に櫛山と鳥の台、南に舟山、南西に金子山。
大池の東、大池の水が石神井川へ流れ落ちる水路に沿ってに足山、五葉松山、琉球山がある。
江戸(下町)や武蔵野の平地では、小高い丘や雑木林や森などはよく山と呼ぶ。
浅草にある山(丘)は待乳山と呼ばれ、待乳山聖天として信仰されている霊山であることは有名。

下屋敷内にあった山々は、加賀公園の築山以外はもうほとんど姿を消している。

7月初旬から蝉が鳴きはじめている、現在の加賀公園の築山の映像をリンクさせている。(720×1280 46MB mp4 こちら

加賀藩江戸下屋敷(都立北園高校教諭 奥山正先生)から引用させていただきました。

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【過去記事】
加賀藩と黒作り
加賀藩江戸下屋敷 奥山正 著 人んとこ荒らすな
加賀藩前田家の駕篭
加賀藩上屋敷跡 東京大学 赤門
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡

東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡

旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 左甚五郎作の龍
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 寛文の庚申塔と山門

石神井川 旧河道 音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
石神井川 金剛寺にある板松橋弁財天洞窟への道標と音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
王子七滝 名主の滝
石神井川 旧河道の露頭 音無さくら緑地
石神井川 音無さくら緑地 攻撃斜面からの湧水(2020年6年22日映像追加)
石神井川 音無こぶし緑地の湧水
石神井川 赤羽線(埼京線)際 板橋四丁目の湧水
石神井川 正受院 不動の滝跡(瀧不動の碑)
石神井川 正受院裏 王子七滝 不動の滝跡(王子不動之瀧跡) 対岸は湯タキ・木タキ

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。