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2020 5/13 『千川上水から東京第二陸軍造兵廠板橋製造所へ取水した分水口と水路跡』

地図の東西を流れるのが千川上水で、南北の青い線が東京第二陸軍造兵廠板橋製造所(板橋火薬製造所<後の東京第二陸軍造兵廠板橋工場>)への水路跡。青い四角が分水口で、現在の板橋一丁目児童遊園。
特に何も説明板もなくひっそりとした公園となっている。

第60号 ねりまの文化財(千川上水特集号)より引用ーーーー
・・・水路は再び国道に出、しばらく道なりに進んで、板橋三−3付近から斜めに国道を横断して板橋郵便局裏の道に入ります。
この辺りから、旧中山道とほぼ平行に流れ、裏通りの閑静な住宅街の中を通ります。350mほどで板橋一丁目児童遊園の前に出ます。ここには板橋火薬製造所(後の造兵廠・板橋浄水所)への分水口がありました。
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練馬区立 石神井公園 ふるさと文化館より引用ーーーーーー
現在、板橋区立板橋一丁目児童遊園になっている所。第二次世界大戦前・戦中は東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、戦後はGHQ関東軍政部がここで千川上水から取水していた。
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写真上から1−3枚目、千川上水側から旧中山道へと、道は階段で数段下がっていて、千川上水が尾根筋を通っていることがわかるだろう。
公園内には分水口にもみえないこともないような四角い砂場のようなものもあるが。
水路跡は推定で描いたので正確ではないが、「第60号 ねりまの文化財」の水路跡の地図より、なるべくそのように辿っている。

板橋区の方では写真の資料がなかったが、練馬区の方で資料があった。
一番下は当時のこの取水場所(分水口)の塀と立札で、このように書いてある....「千川上水 本分水点に於ける如何なる行為をも禁ず 関東軍政部 東京都水道局」
汚水や異物の流入に対して厳しい態度をとっている。
※練馬区立 石神井公園 ふるさと文化館より引用
※豊島区郷土資料館 1966年 『千川上水探訪マップ』転載より転載

【過去記事】
東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡

千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
分水嶺、千川上水調節池跡
千川上水 喜内古屋水車跡
千川上水 水神様
豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑
北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)
千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔
板橋区大山西町の用水路

加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡

板橋遊郭 新藤楼

近藤勇と新選組隊士供養塔

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2020 5/12 『千川上水の田留め水車と中丸川への分水口に祀られた庚申塔』

地図の青い線が千川上水で薄青い線が源流がいくつかある中丸川で、写真上から1−3枚目、千川上水からの分水部分(千川上水が源流のうちのひとつ)に庚申塔と靴だけが残る石像がある。
今でこそ人々が集って夜通し過し夜明けを待つこともないだろうが、いつも花が供えられていて、鉄柱によって守られている姿も相まって、今でも庚申塔(更新信仰)を大切にされていることがよくわかる。
この辻、二股の左側が千川上水で右側が千川上水から水をひいた中丸川。
中丸川の源流はこの他に、もう一ヶ所千川上水からひいたとみられる分水口と、板橋第二中学校付近の幸町にあるストアのイイダ付近からの湧水もあるという。

地図の青丸部分、千川上水に田留水車があったと、大山西町発展史に図と記載がある。
江戸期 板橋宿付近千川用水堀絵図(「千川家文書」)の左青丸付近にこの水車があったのだろう。
その後、昭和四年頃まではこの田留水車は存在していたようだが、暗渠化が進むと共に撤去されたのだろう。
写真1番下の青丸付近に田留水車はあったようだ。
写真下から2枚目が田留水車跡付近に祀られている千川上水の水神様。

大山西町発展史より引用ーーーーーーーー

ー昭和初め頃川越道より商店街入口附近ー

昭和初期の頃 東京府北豊島郡下板橋町原山中字原前
大谷口から向うは上板橋村 大山駅はなし

昭和の初期西町商店街川越道出口附近千川上水に田留さんの水車ある
西町在住の福富正◯◯(◯◯)記憶を思い出す 旧川越道に火の見が見える

※○部分は判読できず。福富正云代(毛書)とも読めるが。
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大山西町発展史より引用ーーーーーーーー
(二)千川上水埋立後の補装諸願運動

・・・王子方面に流れていた水わ、王子製紙に入り飲料水に使用して居り西町地区の所々に飲料水に付き「ゴミ」をし捨てるべからずの立札が立てて有りました。
年に一度、水を止めて清掃して居りましたが、水を止めた時などわ川に入り水底の水たまりや側面の穴の様な処に「フナやナマズ」の様な種々の魚がばけつに一杯位手づかみ取れました。西町区域を流れていた処わ、高台の為土場の通路より水面の処まで二、三米トル位い有り深さわ二尺位でしたが流れも早く深い処で落ちたら上がるのに大変でした。二十七、八年頃かと思ひましたが、◯◯◯番地附近の小さな子供が落ちて今も水神様の処で「ゴミ」よけの樋にかかり止まりましたが、すでに亡くなって居りました。

※○部分は伏字にしました。
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【過去記事】
千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
分水嶺、千川上水調節池跡
千川上水 喜内古屋水車跡
千川上水 水神様
豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑
板橋区大山西町の用水路

北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)

加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡

旧中山道と旧川越街道をつなぐ小松屋横町道
旧川越街道 ハッピーロード大山商店街 小松屋横町道に佇む“命”の碑
板橋区大山町山中通り商店街(大谷道) 補助第26号
板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

上板橋宿と大山福地蔵尊
町民を癒し見守る大山福地蔵尊
電話番号の表札

板橋区栄町(大山)養育院 渋沢栄一

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2020 5/11 『北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)』

板橋区と北区の境界近く、旧中山道と千川上水をむすぶ小道沿いに、馬頭観世音がある。
地図の赤丸部分は近藤勇と新撰組隊士供養塔があり、近藤勇が斬首されて、首は京都の三条河原へさらし首に、そして胴体はこの場所に埋められたという。その後、親族が掘り起こし供養したと伝えられている。
この付近は何もない野原だったことから、こういう行為(処刑)がしやすかったのだろう。
そして、馬頭観世音が祀られていることから、この付近は馬捨場でもあったという。
馬頭観世音には詳しい説明はなく、年代も分らない。
ただ、今の世でも大切にされていることがよくわかる。
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【過去記事】
近藤勇と新選組隊士供養塔
板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏
古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
新選組 沖田総司 逝去の地と玉川上水余水吐

千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
分水嶺、千川上水調節池跡
千川上水 喜内古屋水車跡
千川上水 水神様
豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑
板橋区大山西町の用水路

加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 寛文の庚申塔と山門

谷端川(源泉から池袋本町)
谷端川 2(池袋本町から小石川)
谷端川と池袋の名の由来 古道 高田道
神田川に注ぐ谷端川 市兵衛河岸
谷端川のお多福弁天
谷端川 田楽橋の橋桁
谷端川 大塚にある瀧不動
谷端川下水道幹線 SPR工法

板橋区高島平 徳丸ヶ原 蓮根馬頭観音縁起
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写真下から1−2枚目、この道がかつて流れていた千川上水跡。
下から2枚目、奥をみるとわかるように、低くなっていて、千川上水が尾根に沿って(一部盛り土もしていた)ひかれている。
地図をみてもらうと分るように、低くなった奥の先は谷端川がかつて流れていた。

この馬頭観世音の祠あたりから、千川上水は旧中山道をやや離れるように迂回しているが、元々はそのままほぼ直進していたようで、明治期に入ると板橋宿付近の人家が次第に増し、上水に汚水が入り込む恐れが出てきたため、千川上水を迂回させたとのこと。

第60号 ねりまの文化財(千川上水特集号)平成16年(2004)3月より引用ーーーーーーーーーーーーーーー
この中山道に沿ったあたりの千川には、昔、「千川の怪物(オオサンショウウオ)が捕獲されたという逸話が残されています。
・・・寛政13年(一八〇一)辛酉6月13日、板橋宿のうら通千川の堀にて、怪物をとらへたり。先その形黒く長さ頭より尾まで三尺四五寸もあるべし。背中は黒き内にブツブツと一際黒く、頭には鯰(なまず)に似て平く大城きに、目は長くして至て細し。口の大さ壱尺ばかり、前の両足は指四本、後ろの両足は指五本なり・・・(津田順敬『本朝諸国風土記』)

※頭から尾まで130cm、口30cmで、腹は白く薄赤くまだら模様、ぬめぬめしているが、頭は固い。
※江戸で見世物にするためにどこからか連れてこられたと考えられているとのこ。
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オオサンショウウオは見た目がグロテスクだし、綺麗な河川に棲んでいることから、この板橋宿(平尾宿)の人々にとって、化けもん、怪物に見えたのでしょうね。

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2020 5/7 『目黒元富士跡 上目黒1―8』

代官山交番近くの目切坂に、かつて富士塚(目黒元富士跡)があったという。
そして、道をはさんで向いは大正8年に建てられた旧朝倉家住宅がある。
撮影:2015年5月

案内板から引用ーーーーーーーーーーー
目黒元富士跡 上目黒1―8

江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。
富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。
文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2―1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。
この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。
元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(2―16―21)へ移されました。

平成22年12月
目黒区教育委員会

wikiから引用ーーーーーーーーーーーー
1812年(文化9年)に上目黒「目切坂」上に、富士講団体「山正広講」が築いたもので「丸旦山」とも呼ばれた。
高さ12メートル。山頂には浅間神社の石祠があった。
旧暦6月に山開きが行われると屋台が出て、参詣者でにぎわったという。1819年(文政2年)に中目黒に新富士ができると、区別されて「元富士」や「西富士」と呼ばれた。
1878年(明治11年)に同地が岩倉具視の別邸となった際に石祠や石碑類が氷川神社に移された。
その後は根津嘉一郎邸となり、1939年(昭和14年)の改築の際に破壊された。
【過去記事】
豊島区 南池袋公園(根津山) 豊島区空襲犠牲者哀悼の碑
醤油電車(東武東上線)

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目切坂(めきりざか)別名を〆切坂、またくらやみ坂ともいう。
上目黒一丁目と青葉台一丁目の境を西へ下る坂で、坂上の方にブルガリア公使館がある。
「東京府志料」の上目黒村の条には「坂陵〆キリ坂 渋谷村の境にあり。」と記され、「大日本名所図会」には「上目黒元富士前通り世田谷道を乾位(いぬい)に下る坂をめきり坂といふ、昔時臼の目切を業とせしものこ々に居住せしより此名ありといふ。此道通りを日向(ひなた)通りと呼べり。此所より駒場へ半里といふ。」とあり、また「目黒区誌」は「この目切の家は、伊藤與右エ門(伊藤与右衛文)といって明治十年ごろまで坂上にすんでゐたとある。」と記している。
坂上のわきにいまも建っている庚申碑には「これより大山道」と刻まれ、それより古くは鎌倉への道筋で、林の中のほそ道だったので「くらやみ坂」とよばれていたという。
『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用
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【過去記事】
渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道
猿楽古代住居跡(代官山)
鎌倉街道 中道 並木橋

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【過去記事】
駒込富士神社と古墳群
池袋富士塚と池袋貝塚
北区滝野川 金剛寺 冨士講先逹の安藤冨五郎顕彰碑
石神井川の大橋たもと 不動明王座像と敷石供養塔 安全の祈願
下谷坂の富士塚 柳森稲荷神社の富士講関係石碑群
板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿
消える富士見坂と豆まき
消えた日暮里富士見坂
いたばし大交通展 人工地盤 西台アパート(西台団地) 富士山を望む
練馬区 ふじ大山道
富士・大山道の道標と庚申塔 下練馬大山道の道標と東高野山の道標
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

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2020 5/7 『十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更)と補助83号線』

日光御成道沿い、武蔵野台地の際にある十条冨士塚は、補助83号線の拡幅工事のために、整備されることが決まった。
貴重な冨士塚はどうなるのか気を揉んでいて、計画をスムースに通すには道を湾曲させれば道を通すことができるが、さらなる学校等や住宅の用地買収をしなければならないのと、走行への障害が出てしまうことから、どうしても冨士塚を削るか、移設させなければならないことが分っていたから。
道の整備のために、寺院などが移動することも多いし、境内の富士塚が削られることもある。板橋区氷川町の氷川神社境内にある富士塚も、新中山道開通のために富士塚が大きく削られたと、何かの記事で目にしたことがある。

一番上の遺跡地図に赤丸が4つあるが、これが十条台古墳群で、そのひとつがこの十条冨士塚(冨士神社)で、武蔵野台地の際にあることが分るだろう。(線路は台地の直下に通っている)
日光御成街道は江戸時代に、徳川の将軍が日光へと参拝に行くために使った道なので、そう呼ばれている。岩槻街道とも言われている。
遺跡地図をみると、台地の際に沿って遺跡が集っていて、左下には石神井川があり、台地の下は海で、この地が縄文時代から古代にかけて一等地だったこともわかる。

【過去記事】
十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線
赤羽台第3号古墳石室

引用ーーーーーーーーーーーー
十条冨士塚(じゅうじょうふじづか)は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
現在も、これを信仰対象として毎年6月30日・7月1日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠(せきし)を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、30数基あります。銘文(めいぶん)によれば遅くとも、天保11年(1840)10月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
これらのうち、鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄(じきぎょうみろく)、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳(こみたけ)神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
冨士神社は都内七冨士巡りの1つ(十条冨士)としても知られる神社です。毎年6月30日と7月1日の「十条冨士神社大祭」は、「お冨士さん」と呼ばれ、たくさんの人や露天でにぎわいます。

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配置図をみると残念だが大幅に削られますね。
しかし、同じ場所に残されることは古代からの記憶を残すことでもあるので、その点では良かったのではないだろうか。
この道を通ったことがある人はよく分るのだが、幅員が狭過ぎるので、歩行者にとってはとても危険で、車輌にとっても気を使う道である。
抜け道として使うことも多かったが、渋滞時には歩道をすり抜ける二輪が多く、かねてから道の整備を望んでいる近隣住民が多かったようだ。
近くに学校もあり、良いこともたくさんある計画なので、神様も喜んで譲ってくれたのではないだろうか。

発掘調査に伴って古代からのGIFTが出土するかもしれない。

詳しくはこちらから。
撮影:2017年10月と2019年6月

【過去記事】
駒込富士神社と古墳群
池袋富士塚と池袋貝塚
北区滝野川 金剛寺 冨士講先逹の安藤冨五郎顕彰碑
石神井川の大橋たもと 不動明王座像と敷石供養塔 安全の祈願
下谷坂の富士塚 柳森稲荷神社の富士講関係石碑群
板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿
消える富士見坂と豆まき
消えた日暮里富士見坂
いたばし大交通展 人工地盤 西台アパート(西台団地) 富士山を望む
練馬区 ふじ大山道
富士・大山道の道標と庚申塔 下練馬大山道の道標と東高野山の道標
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

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2020 5/6 『豊島長崎の富士塚』

古道である椎名町道(兵隊道、一部鎌倉街道と重複)沿い、地図のD地点の豊島区高松2−9−3に国指定重要有形民俗文化財の豊島長崎の富士塚がある。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーー
国指定重要有形民俗文化財

豊島長崎の富士塚
豊島区高松二ー九ー三

富士塚は、富士山を神の宿る地として信仰する人々の集まりである富士講によって。江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江戸とその周辺地域に築かれたものです。
この富士講は、角行を開祖として、江戸時代中期には身禄によって広められ、最盛期には江戸八百八講と称されるのどの講が結成されて代表的な庶民信仰の一つとなりました。
豊島長崎の富士塚は、文久二年(一八六二)に富士講の一つである豊島郡長崎村の月三講(講祖は三平忠兵衛)の椎名町元講の人々によって築造されました。
高さは約八メートル、直径約二十一メートルで、表面は富士山の黒ボク石(溶岩)でおおわれています。
塚内には、頂上に大日如来坐像、小御岳石尊大権現碑、烏帽子岩奉献碑があるほか。合目石、講碑、石仏、天狗像、御胎内などが配置され、約五十基の充実した石像物群で構成されています。
浅間神社では、かつてお焚き上げが行われており、奉納された数多くの講碑から長崎村の人々の富士信仰の強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができます。
この富士塚は、東京都内にある江戸時代に築造された富士塚の中でもよく原型をとどめていることから、昭和五十四年五月二十一日に国の重要有形民俗文化財に指定されました。
その美観と偉容を永く後世に伝えるため、昭和六十二年には昭和の大修復が行われ、以後浅間神社豊島長崎富士塚保存会によって山掃除や保存修復事業が定期的に実施されています。

平成十九年(二〇〇七)三月
豊島区教育委員会
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

良い状態で保存するために常時閉鎖されているのだろう。
写真だけでは伝わらないのが残念。
撮影:2015年4月24日

【過去記事】
駒込富士神社と古墳群
池袋富士塚と池袋貝塚
北区滝野川 金剛寺 冨士講先逹の安藤冨五郎顕彰碑
石神井川の大橋たもと 不動明王座像と敷石供養塔 安全の祈願
十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線
下谷坂の富士塚 柳森稲荷神社の富士講関係石碑群
板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿
消える富士見坂と豆まき
消えた日暮里富士見坂
いたばし大交通展 人工地盤 西台アパート(西台団地) 富士山を望む
練馬区 ふじ大山道
富士・大山道の道標と庚申塔 下練馬大山道の道標と東高野山の道標
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

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2020 5/4 『北区 中里遺跡出土丸木舟』

北区飛鳥山博物館に保存・展示されている縄文時代中期初頭(約4700年前)の丸木舟は見事な姿。

地形図の黒丸部分、約7000年前に古石神井川が武蔵野台地を削って、低地へと流れを変えた。これを河川争奪という。
台地を突き破る前は、右下の不忍池、東京湾へと流れていた。
石神井川の河川争奪が起きた時代の2300年後に、この丸木舟が作られたことになるので、東京湾の海水と石神井川の淡水が混じる汽水域のような風景が広がっていたのだろうか。

中里遺跡は地形図の赤く囲ったあたり。

絵はがきから引用ーーーーーーーーーーーー
都指定有形文化財(考古資料)指定:平成16年3月10日

中里遺跡は、主にJR田端駅から上中里駅の間の武蔵野台地崖下に、約2kmにわたって広がる低地遺跡です。
縄文時代から近世の各時代にわたる複合遺跡で、遺跡の範囲内には国指定史跡の中里貝塚も存在します。
丸木舟は昭和59年(1984)6月に、東北新幹線建設に伴う発掘調査に際し、海抜3.3mの砂層中から出土しました。
縄文時代中期初頭のものとみられ、完形品としては都内で唯一の発掘例です。
縄文時代中期の丸木舟の出土例は全国的にも少なく、貴重です。
この丸木舟は1本の丸木を刳り抜き、他の材を接合しないで作る「単材刳舟」で、薄手かつ精巧に作られています。
残存状態は大変良好で、出土時点の計測値は全長579cm、最大幅72cmでした。樹種はニレ科ムクノキです。
当時、東京湾が奥まで入り込み、中里遺跡の付近は海岸の砂浜が広がっていました。
当時の人々がこの海を生活の拠り所としていたことは、大量の貝殻が積み重なっていた大規模な中里貝塚の様子からもうかがえます。
縄文人たちが漁労や交易活動の道具として丸木舟を利用していたと考えられます。
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また、飛鳥山博物館の中里貝塚の剥ぎ取り標本も圧巻なので必見だと思う。(写真一番下のものが中里貝塚)
この地域は縄文時代から古代、近代にかけても一等地だったので、その他にも見所がたくさんあり、歴史がたくさん詰まっているので、とても歴史の勉強になる。

余談だが、耳あかが湿っているタイプの人は縄文人により近いタイプのヒトだという。

新型コロナウイルス感染症の影響で5/7まで博物館は休館している。(緊急事態宣言の延長があるので、もう少し休館が続くと思われる)
■国史跡中里貝塚
■中里遺跡出土丸木舟

【過去記事】
石神井川 河川争奪
逆川(古石神井川の流路)
旧石神井川(古石神井川)の跡 飛鳥山・滝野川付近

駒込富士神社と古墳群
北区西ヶ原 熊野坂
■北区西ヶ原〜滝野川 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)
縄文人の一生 西ヶ原貝塚に生きた人々

日本人のルーツ
縄文人の核DNA解析

国指定重要文化財(建造物) 旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫) 北区西ヶ原二-十六-一
国指定史跡(大正十一年三月八日指定) 西ヶ原一里塚 北区西ヶ原二ー十三・四先

#コロナに負けるな #stayhome
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photo

2020 5/1 『北区滝野川 金剛寺 冨士講先逹の安藤冨五郎顕彰碑』

地図の黒丸部分、石神井川に沿って金剛寺がある。

冨士講に関するものはたくさんあり、金剛寺境内の冨士講先逹の安藤冨五郎顕彰碑を紹介したいと思う。

金剛寺の案内板から引用-----------------

富士山は神のやどる霊山として古来から人々による崇拝による信仰をあつめてきましたが、登拝すると数々の災難から逃れられるとも信じられ、富士山参詣による信仰が形成されてきました。
冨士講は、これらを背景に江戸時代、関東地方を中心とする町や村につくられた信仰組織です。
ここにある富士山をかたどった記念碑は冨士講の先達として活躍した安藤冨五郎の顕彰碑です。
碑の表側には参という文字を丸でかこんだ講紋および「三国の光の本をたちいてて こころやすくも西の浄土へ」という天保八年□月十二日に没した伊藤参翁の和歌の讃が刻まれています。
裏側の人物誌によれば、冨五郎は宝暦五年(一七五五)、滝野川村に生れたが、青少年時代から冨士信仰の修行をおこない、丸参講という講組織をつくって冨士信仰をひろめるのに努力した。
その甲斐もあってか、中興の祖である食行身禄(伊藤伊兵衛)の弟子の小泉文六郎から身禄が姓とした「伊藤」という性を許されて伊藤参翁と称した。
冨士への登山・修行は五十回におよび、冨士信仰にかかわる多くの人々から敬われ、八十才を超えてもなお、顔立は早春に野山の枯草を焼く野火や紅色の雲のように活気に満ち、嘘や偽りのない美しさを保っていたとあります。
冨五郎が生きた時代、冨士信仰は、政治・経済の混乱や封建的な身分制秩序による苦難から人々が救われるには男女の平等や日常生活のうえでの人として守るべき規範を実践し、これによって弥勒の世を実現するべきだという信仰思想に触発され、人々のあいだに急速にひろまりました。

平成七年三月
東京都北区教育委員会

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下記は富士山に関する過去記事。
浅草の浅間神社にもよくお参りに行っている。

ところで、世はGWに突入だが、緊急事態宣言の1ヶ月延長で意見が一致とのこと。さらにじっとの辛抱ですね。
#コロナに負けるな #stayhome

【過去記事】
北区滝野川 狐塚の坂と岩屋弁天・正受院(滝不動)への道標
石神井川 金剛寺にある板松橋弁財天洞窟への道標と音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線
池袋富士塚と池袋貝塚
駒込富士神社と古墳群
下谷坂の富士塚 柳森稲荷神社の富士講関係石碑群
練馬区 ふじ大山道
富士・大山道の道標と庚申塔 下練馬大山道の道標と東高野山の道標
消える富士見坂と豆まき
消えた日暮里富士見坂
いたばし大交通展 人工地盤 西台アパート(西台団地) 富士山を望む
板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿

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