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2020 5/30 『ハロ』

この一週間くらいなかなかGPSの電波をキャッチしないので、空が広い場所まで行くけど、それでもぜんぜんキャッチしないこともあって、いらつきながらふと空を見ると、光の輪、ハロが広がっていた。
これは珍しい現象ではなく、あとから知ったけど、大きな輪の中にもうひとつ小さな輪があって、これを9度ハロと言うらしく、SNSなどで話題になっていた。

緊急事態宣言の解除があり、少しずつながら人々が姿を現しはじめていることに嬉しさも感じる。
しばらく避けていた副都心へ走りだした。
人気がある飲食店には列ができ、あちこちのお店から笑顔と笑い声が漏れてくる。
良かった良かった。

塩まみれでホームグラウンドに到着...マスクを解いて、軽く一杯。
マスクをしていないランナーもとても多い。
しかし、 しなければ分別のない人だと思ってしまうし、そう思われるのも嫌なこと。
ノーマスクで走れる日が早く訪れるように、今日も苦しいMASKランに努めよう。

緊急事態宣言が再び発令されないように。

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2020 5/29 『板橋宿(上宿・仲宿)の各施設跡(大木戸<江戸御府内 朱引>・上宿 脇本陣板橋市左エ門家・高札場・自身番・問屋場)と新旧の板橋』

旧中山道、板橋宿の中心だったのは仲宿で、本陣をはじめ各施設が揃っていた。

地図1枚目、石神井川に架かる現在の板橋の少し先、大きな赤丸部分あたりにかつて大木戸があったという。
しかし、絵図には描かれていないので詳細な位置は分らない。
その先に暗渠となって消滅した稲付川がかつて流れていて、現在は交番があり、(写真1枚目)江戸の出入口である大木戸ゆえに、門番の名残としてその場所に交番がある可能性もないこともないが、高札場が石神井川の袂にあり、そして近くに自身番もあるので、地図の大きな赤丸部分あたりにあった方が妥当だろう。
上から3枚目の中山道板橋宿跡総図、赤く囲ったところに「この先、板橋宿大木戸(簡易関所)があつた」と書かれている。(文政江戸朱引図<1818年>では、この大木戸があった場所が朱引きの旧中山道の北部地点(線))
また、小さな赤丸部分の上宿の脇本陣板橋市左エ門家(板橋市左衛門家)は、昭和の石神井川の改修工事(直線化、浚渫<しゅんせつ>)によって、敷地(跡地)は消滅したそうだ。
この付近には板橋さんが多く住まわれていて、この脇本陣板橋家の一族もいることだろう。
板橋氏は(武蔵)豊島氏の一族で、末裔にあたる板橋信濃守忠康の墓は、かつて仲宿にあった重蓮寺(板橋区赤塚に移転。東京大仏も有名。)にあり、板橋区登録有形文化財となっている。

地図2枚目に本陣の跡地を描いているが、本陣と脇本陣の関係が少し複雑なので【過去記事】を参考に。
【過去記事】
板橋宿中宿名主飯田家(総本家)跡
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏

上記の過去記事からも分るように、主要な施設が仲宿に密集していたことがよく分る。

ところで、写真上から2ー6枚目、上記の昭和の石神井川の改修工事によって、川の流れが替えらて、かつての石神井川は緑道(親水公園)となり、江戸時代以前から架けられていた“板橋”の京側に新しい“板橋”が架けられた。
本来の“板橋”は仲宿側(江戸方面)であることは、意外と気づかないかもしれない。

wikiから引用ーーーーーーーーーーーーーー

※自身番(じしんばん)は、江戸時代に江戸や大坂などの町人地に設けられた番所。町内警備を主な役割とし、町人によって運営された。自身番の使用した小屋は自身番屋・番屋などと呼ばれた。江戸町奉行所の出張所・町年寄が詰める江戸町会所の連絡所・町内事務所・町内会所・消防団詰所・交番の機能を兼ねた施設であった。ここに詰めた番人は番太と呼ばれた

※問屋場(とんやば・といやば)は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(本項の語意に於ける「問屋」とは、運送業を意味する。)。
業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていた。

※高札(こうさつ・たかふだ)とは、古代から明治時代初期にかけて行われた法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法である。なお、特定の相手や事柄を対象として制定された法令(特別法)を記した同様の掲示を制札(せいさつ)と呼ぶが、その実際の運用上は厳密に区別されていたとは言い難かったようである。
木の札に、表題・本文・年月日・発行主体が書かれており、これを屋根が付いた人目に目立つ一段高くなった高札に掲げられた。 その起源は確かでないものの、延暦元年(782年)の太政官符に官符の内容を官庁や往来に掲示して、民衆に告知するように命じた指示が出されている。以後、武家政権でも同様の方法が取られている。
だが、これを最も良く用いて全国的な制度として確立したのは江戸幕府及び諸藩であった。 高札制度の目的としては、
・新しい法令を民衆に公示する。
・民衆に法の趣旨の周知徹底を図る。
・基本法である事を明示する(違反者は「天下の大罪」であるとして、違反者は死罪などの重い刑に処せられることが多かった)。
・民衆の遵法精神の涵養を図る。
・民衆からの告訴(謂わば密告)の奨励(特にキリシタン札(切支丹札)などには高額の賞金が掲げられた)。
・幕府や大名の存在感の誇示。
などが挙げられる。

主な代表的な高札としては、寛文元年(1661年)の5枚の高札(撰銭、切支丹、火事場、駄賃、雑事)や正徳元年(1711年)の5枚の高札(忠孝、切支丹、火付、駄賃、毒薬)、明治維新とともに新政府から出された五榜の掲示などがある。
■高札場(制札場)と庶民教育への利用
幕府は人々の往来の激しい地点や関所や港、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に高札場(制札場)と呼ばれる設置場所を設けて、諸藩に対してもこれに倣うように厳しく命じた。
これに従って諸藩でも同様の措置を取ると同時に自藩の法令を併せて掲示して自藩の法令の公示に用いた(代表的な高札場としては江戸日本橋、京都三条大橋、大坂高麗橋、金沢橋場町、仙台芭蕉辻などが挙げられる)。
また、宿場においても多く設置され、各宿村間の里程測定の拠点ともされた。
このため、移転はもとより、高札の文字が不明になったときでも、領主の許可なくしては墨入れ(高札は墨で書かれていたため、風雨には大変弱かった)もできなかった。
その代わりに幕府や諸藩では「高札番」という役職を設けて常時、高札場の整備・管理に務めさせ、高札の修繕や新設にあたらせた。
また、この民衆への周知徹底のために高札の文面には、一般の法令では使われない簡易な仮名交じり文や仮名文が用いられた。
更には当時の幕府は法律に関する出版を厳しく禁じる方針を採っていたにも拘らず、高札に掲示された法令に関しては「万民に周知の事」と言う理由で簡単に出版が許されたばかりでなく、高札の文章は寺子屋の書き取りの教科書としても推奨されていた。
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【過去記事】
近藤勇と新選組隊士供養塔
板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)
板橋宿中宿名主飯田家(総本家)跡
板橋区仲宿 文殊院 子の権現
板橋遊郭 新藤楼
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 左甚五郎作の龍
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 寛文の庚申塔と山門
旧中山道 板橋宿(仲宿 )伊勢孫跡 レンガの塀と車輪除けの石
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の絵馬
旧中山道はタネ屋(種屋)街道
旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 扁額と根村用水
稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水(稲付川や中用水、北耕地川とも言われる)
旧中山道と旧川越街道をつなぐ小松屋横町道
中仙道か中山道か

加賀藩と黒作り
加賀藩江戸下屋敷 奥山正 著 人んとこ荒らすな
加賀藩前田家の駕篭
加賀藩上屋敷跡 東京大学 赤門
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡
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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2020 5/27 『渋谷区猿楽町 重要文化財 旧朝倉家住宅』』

地図の黒丸部分、旧山手通りからは姿がよく見えなく、通りの賑やかさとは逆に、ひっそりとそして荘厳な姿で旧朝倉家住宅がある。
今から40数年前に住んでいた集合住宅(施設)に、三和土が似ていて、なんだかホッとするような、寂しいような、頑張らないと、そんな気持ちになった。
平面図でも分るが、複雑な造りになっていて、目黒川に向かって開かれた、大広間から見る庭も見事で、当時は素晴らしい眺望だったことだろう。

wikiから引用ーーーーーーーーーーーーーー
旧朝倉家住宅は、渋谷区猿楽町、台地が目黒川の谷に落ち込む南西斜面に、東京府会議長や渋谷区会議長を歴任した朝倉虎治郎によって、1919年(大正8年)に建てられた。
大正期の和風2階建て住宅の趣のある建物と回遊式庭園を見ることができる。現在の所有者は文部科学省である。
当住宅は、大正期に建てられた大規模な邸宅であり、東京都心部に所在する数少ない関東大震災以前の和風住宅である。
建物は、主屋が敷地北側にあり、土蔵が西側に、車庫等の附属屋が東側にある配置となっている。主屋の外装材は、屋根が瓦葺き、外壁は下見板張り、部分的に漆喰塗りである。
屋内は、床が殆どが畳敷と、接客と家族のための座敷が統一されているが、茶室等の機能の違う部屋の意匠には特徴がある。
主屋は敷地北寄りの中央に位置し、複雑な平面構成をもつ。
主屋の主体部は南北棟・1階建の部分と、その西に接続する東西棟・2階建の部分からなる。
1階建部分は東面中央に玄関が突出し、これを入ると左手(南)に12畳半の応接室、右手(北)に洋室がある。
その西に接続する2階建部分は、1階に南北2列(各3室)、計6室の居室を設けていた。ただし、南列の3室は現在は間仕切りを廃して広い1室となっている。
2階は西に15畳の座敷、東に12畳半の次の間があり、その東には廊下を挟んで茶室と水屋を設ける。
15畳の座敷は床(とこ)、棚、付書院の座敷飾りを備え、天井は格天井とした格式の高い部屋である。
主体部の南西側には「杉の間」と称する座敷部が接続する。主体部の西、座敷部の北には廊下で囲まれた中庭を設け、中庭の西には別棟の土蔵が建つ。
「杉の間」は3室からなり、化粧材に杉材を用いている。
その北西に接して茶室を設け、茶室の北の小室は大きな円窓を設けることから円窓の間という。
円窓の間の北に接して先述の土蔵が建つ。このほか、主体部の北側に内玄関と台所、中庭の北側に家族室がそれぞれ突出する。
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ヒルサイドテラスに隣接しているのは、ヒルサイドテラスが元は朝倉家の敷地だったため。
敷地内にはもう一基塚(古墳)があるようだが、よく分らなかった。
下記の過去記事にも書いてあるが、二つの古墳の間を鎌倉街道が通っていたという。
今は髪の毛のカットに代官山に行く目的が増えたが、同潤会アパートがあった頃はとても好きでよく行っていた。

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【過去記事】
渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道
鎌倉街道 中道 並木橋
猿楽古代住居跡(代官山)
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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。