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2022 1/12 『板橋区志村 志村古墳群 板橋区No_157遺跡<塚or古墳>』

地図のと航空写真の黒丸部分にかつて<塚or古墳>があり、No.157遺跡として登録されている。
写真上から1〜2枚目が、この<塚or古墳>があった場所で、現在は住宅が建っていてその存在はない。

いたばし風土記より引用ーーーーーーーー
熊野神社のある丘陵全体が志村城跡でもあるわけです。
神社は平安時代の長久三年(一〇四二)この地方の豪族志村将監が紀州の熊野神社の分霊をここにお祀りしたのが始まりだと伝えられています。
源義家が奥州の安倍頼時を討つため出発の際この神社に戦勝を祈ったとも伝えられます。
神殿は舌状台地のほぼ中央部にあたります。本殿の裏側に小山の姿が見えますが、これは古墳で、その塚の上に建てられています。
江戸時代・明治時代の改築の時、直刀や鏡や合子(香入れ)が発掘されたことから古墳というのは経塚ではないかと考えられます。
この社を中心に志村城が作られ、土地の豪族志村氏も住んだのかも知れませんが、康正二年(一四五六)千葉氏が板橋地方に移入した時から千葉隠岐守信胤(のぶたね)が赤塚城の前衛拠点として守りをかためていたといわれています。
この城は約七十年後の大永四年(一五二四)に小田原の北条早雲の子氏綱が、江戸城から逃げ出して川越城へ走る上杉朝興を追ってここで追いつき、その戦いにより落城したと伝えられます。
上杉家と千葉家は主従にも似た間がらですから、あるいは朝興の軍が志村城に逃げこんで、戦いの巻き添えを喰って落城したかもとも考えられます。
この大永のころには志村城主は千葉氏から篠田五郎に代替りしていたのか、延命寺縁起の開基見次権兵衛は篠田の家臣と記録されていますし、初代城主の千葉信胤の子孫は全然記録がありません。信胤の重臣に篠田五郎なるものがいて、主君のあとをついだとの見方も出てくるわけです。
この城は中世の平城の典型的な姿です。地形の天嶮を利用し、北の山すそまで荒川の水がしたし、南に出井川の流れをめぐらせた要害堅固な城だったようで、丘上の現志村小学校コパル工場敷地を本丸に、熊野神社社殿の下から学校校庭にかけて空壕を掘り二の丸、さらにコパル第二工場と神社境内境にも壕を設けて三の丸に区分けし、山のへりにも空壕がめぐらせてありました。コパル第一工場の建設で山頂の桧林が整理されるまで十数個の古墳がありまして、最後の一番大きなお伊勢塚と呼ばれた円墳がこわされたときには一体分の人骨が掘り出され、現在も事務所の前に移設埋骨されて古墳のおもかげを留めております。
熊野神社が現在のように銅葺屋根に改められたのは昭和三十二年です。それまでは萱葺のゆかしい社で、今の本殿の右側に建っている絵馬堂と同じようでした。この絵馬堂が明治の改築までの本殿ではないかと想像されます。
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傾斜地にあった<塚or古墳>の下には出井川が流れていて、写真下から1−2枚目を見てもらうと分かるが、急な崖が続いている。生活道路でもあるが、傾斜地に住む高齢者は上に行くのも下に行くのもなかなか大変なのではないだろうか。自転車用のスロープ?があるが、使うことはほとんどないだろう。階段は踏面よりも少し蹴上げが長いが、40度くらいあるのだろうか。

上記にもあるが、志村一帯にはかつては古墳がたくさんあったようだが、今はほとんどが消滅してしまった。
志村1号墳は昭和10年(1935)頃から始まる近隣の区画整理事業によって破壊されてしまったが、破壊前に古墳の測量調査が行われたという。
志村1号墳は径13〜14、高さ約3mの円墳で、石室の天井石と側壁の大半は失われていて、石室は切石積みで一部に河原石が敷かれていたという。残念ながら、盗掘されていて、出土遺物もなかったそうだ。石室の形態などから終末期の古墳と見られている。
また、ここから東へ少し行くと赤羽台古墳群があり、それとも関係があると言われている。

【関連記事】
■板橋区 志村古墳群<お伊勢塚古墳> 2022年1月13日加筆
■板橋区 志村城山遺跡・志村城址 <熊野神社に残る空濠>
■板橋区志村 熊野神社 板橋区No_159遺跡<塚(古墳)上に建てられた社殿>

■旧中山道 板橋区志村 清水坂と平次坂(へび坂) 志村清水坂緑地(清水坂公園)の湧水
■旧中山道清水坂そば 板橋区志村二丁目の湧水

■板橋区泉町 出井の泉跡(出井川)
■板橋区前野町 出井川の水源のうちのひとつ 見次公園(自然湧水池)

■板橋区立郷土資料館 連携協定記念展 <渋沢栄一 高島秋帆> 最新志村案内図 渋沢別邸
■板橋区志村 旧中山道 富士・大山道の道標と庚申塔
■板橋区志村2丁目(志村坂上)の住宅にある庚申塔
■高倉健 新幹線大爆破 志村検査場・交通局志村基地
■板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿
■板橋志村、この地に生きて 大野邦雄 遺稿集
■板橋区立郷土資料館 連携協定記念展 <渋沢栄一 高島秋帆> 最新志村案内図 渋沢別邸
■中山道 日本橋から三番目 不動の志村一里塚
■板橋区志村一里塚隣り 中山道 齋藤商店

■赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
■北区赤羽北 稲荷の坂と赤羽台古墳群(赤羽台4丁目)
■北区赤羽西5 大塚古墳 周辺の古墳(天王塚古墳、稲付台古墳群など)
■王子七滝 消滅した王子 稲荷の滝後の“稲荷の崖線湧水”と王子稲荷裏古墳の狐穴(横穴墓)<十条台遺跡群>
■北区王子 飛鳥山1号墳
■北区滝野川3 四本木稲荷神社/四本木稲荷古墳
■北区上中里 平塚神社(平塚城伝承地) 鎧塚古墳/甲冑塚古墳
■北区滝野川3 滝野川古墳(都立王子総合高等学校敷地/旧王子工業高等学校跡地)

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。

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2022 1/11 『志村熊野神社所蔵絵馬・扁額・付寄進札 <絵馬殿>』

地図の黒丸部分、志村熊野神社の境内に絵馬が納められている絵馬殿がある。
絵馬殿には小さな開口があるので覗くことができ、中には入ることは出来ないが、文化財ウィークなどでは立ち入って見学、ボランティアの方々に解説をしてもらえることがある。
<いたばしの絵馬と扁額>の本は、3年位前の文化財ウィークで戴いたもの。
その下の写真はこの本から引用させていただきました。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーーーー
志村熊野神社所蔵絵馬・扁額・付寄進札

当社所蔵の絵馬と扁額はその多くが江戸時代中期から大正期にかけて、地域住民により奉納されたもので、絵馬八十二枚、扁額九枚、寄進札四枚が現在奉納されています。
絵馬には、参詣図や神話図、物語図など多様な画題がみられますが、特に注目すべきは伊勢大々神楽奉奏の様子を描いた寛政七年(一七九五)の大絵馬です(一一〇・五cm×一二一cm)。
伊勢大々神楽とは室町時代末期から江戸時代を通して、伊勢や熱田の大神宮の御師・社家の神前で奉納された神楽です。参宮者は祈願成就と参宮の証しとして、この神楽奉奏を描いたものとしても最古級の絵馬です。
現在、絵馬と扁額および寄進札は絵馬殿内に架けられて保存されています。当絵馬殿は江戸時代中期から後期に建築された入母屋造りの旧拝殿を移築(曳き屋)したもので、虹梁・肘木には繰り形彫刻の意匠が施されるなど、小規模ながら建立当時の大工技術や社寺建築の特徴が窺えます。
志村熊野神社所蔵絵馬・扁額は当社に対する地域住民の信仰が明らかとなる資料として、平成二十一年度に板橋区登録有形文化財となりました。

平成二十三年三月 
板橋区教育委員会
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奉納された絵馬はどれも素敵なので、実際に見ることができる機会があればぜひ。
遥か昔からも今も、志村の台地際は見所がたくさんありますね。

【関連記事】
■板橋区 志村古墳群<お伊勢塚古墳> 2022年1月13日加筆
■板橋区 志村城山遺跡・志村城址 <熊野神社に残る空濠>
■板橋区志村 熊野神社 板橋区No_159遺跡<塚(古墳)上に建てられた社殿>

■旧中山道 板橋区志村 清水坂と平次坂(へび坂) 志村清水坂緑地(清水坂公園)の湧水
■旧中山道清水坂そば 板橋区志村二丁目の湧水

■板橋区立郷土資料館 連携協定記念展 <渋沢栄一 高島秋帆> 最新志村案内図 渋沢別邸
■板橋区志村 旧中山道 富士・大山道の道標と庚申塔
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■旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路
■旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。

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2022 1/7 『板橋区 志村城山遺跡・志村城址 <熊野神社に残る空濠>』

遺跡地図の黒丸あたり全体が志村城山遺跡・志村城址で、熊野神社が造営されており、社殿は塚(古墳)の上に建てられている。
東京都遺跡地図情報では古墳ではなく塚として登録されている。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーー
志村城跡と熊野神社

志村城は、康正二(一四五六)年に千葉自胤(よりたね)が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤(のぶたね)
本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ“守るに易く攻めるに難し”といわれる堅城であったが、大永四(一五二四)年に北条氏綱に攻められて落城した。
熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上に建てられている。長久三(一〇四二)年、志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めた。現在の社殿は昭和三十二年に改築されたものである。社殿の西側には今でも空濠の跡を見ることができる。

平成五年二月
板橋区教育委員会
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いたばし風土記より引用ーーーーーーーー
熊野神社のある丘陵全体が志村城跡でもあるわけです。
神社は平安時代の長久三年(一〇四二)この地方の豪族志村将監が紀州の熊野神社の分霊をここにお祀りしたのが始まりだと伝えられています。
源義家が奥州の安倍頼時を討つため出発の際この神社に戦勝を祈ったとも伝えられます。
神殿は舌状台地のほぼ中央部にあたります。本殿の裏側に小山の姿が見えますが、これは古墳で、その塚の上に建てられています。
江戸時代・明治時代の改築の時、直刀や鏡や合子(香入れ)が発掘されたことから古墳というのは経塚ではないかと考えられます。
この社を中心に志村城が作られ、土地の豪族志村氏も住んだのかも知れませんが、康正二年(一四五六)千葉氏が板橋地方に移入した時から千葉隠岐守信胤(のぶたね)が赤塚城の前衛拠点として守りをかためていたといわれています。
この城は約七十年後の大永四年(一五二四)に小田原の北条早雲の子氏綱が、江戸城から逃げ出して川越城へ走る上杉朝興を追ってここで追いつき、その戦いにより落城したと伝えられます。
上杉家と千葉家は主従にも似た間がらですから、あるいは朝興の軍が志村城に逃げこんで、戦いの巻き添えを喰って落城したかもとも考えられます。
この大永のころには志村城主は千葉氏から篠田五郎に代替りしていたのか、延命寺縁起の開基見次権兵衛は篠田の家臣と記録されていますし、初代城主の千葉信胤の子孫は全然記録がありません。信胤の重臣に篠田五郎なるものがいて、主君のあとをついだとの見方も出てくるわけです。
この城は中世の平城の典型的な姿です。地形の天嶮を利用し、北の山すそまで荒川の水がしたし、南に出井川の流れをめぐらせた要害堅固な城だったようで、丘上の現志村小学校コパル工場敷地を本丸に、熊野神社社殿の下から学校校庭にかけて空壕を掘り二の丸、さらにコパル第二工場と神社境内境にも壕を設けて三の丸に区分けし、山のへりにも空壕がめぐらせてありました。コパル第一工場の建設で山頂の桧林が整理されるまで十数個の古墳がありまして、最後の一番大きなお伊勢塚と呼ばれた円墳がこわされたときには一体分の人骨が掘り出され、現在も事務所の前に移設埋骨されて古墳のおもかげを留めております。
熊野神社が現在のように銅葺屋根に改められたのは昭和三十二年です。それまでは萱葺のゆかしい社で、今の本殿の右側に建っている絵馬堂と同じようでした。この絵馬堂が明治の改築までの本殿ではないかと想像されます。
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志村城遠景白黒写真は、その下の現在の集合住宅あたり<お伊勢塚古墳>を遠くから写したものだろうか。
神社境内、社殿の西側の赤い矢印の方に進むと、現存する空濠の一部を見ることができる。

※社殿の西側の空濠の映像はこちら(mp4 720×1280 37.4MB)

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■上板橋役場跡と古道 台橋道(茂呂遺跡・栗原遺跡 お東山<板橋城跡の候補地のひとつ 長命寺>)
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■板橋区立郷土資料館 連携協定記念展 <渋沢栄一 高島秋帆> 最新志村案内図 渋沢別邸

■板橋区泉町 出井の泉跡(出井川)
■板橋区前野町 出井川の水源のうちのひとつ 見次公園(自然湧水池)
■旧中山道 板橋区志村 清水坂と平次坂(へび坂) 志村清水坂緑地(清水坂公園)の湧水
■旧中山道清水坂そば 板橋区志村二丁目の湧水

■板橋区 前野町地区の遺跡と前野町熊野北遺跡 常楽院収蔵の土器(前野町式土器<弥生土器>)
■板橋区若木 中台馬場崎貝塚

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2022 1/5 『板橋区志村 熊野神社 志村古墳群 板橋区No_159遺跡<塚(古墳)上に建てられた社殿>』

遺跡地図の黒丸に熊野神社が造営されており、社殿は塚(古墳)の上に建てられている。
東京都遺跡地図情報では古墳ではなく塚として登録されている。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーー
志村城跡と熊野神社

志村城は、康正二(一四五六)年に千葉自胤(よりたね)が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤(のぶたね)
本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ“守るに易く攻めるに難し”といわれる堅城であったが、大永四(一五二四)年に北条氏綱に攻められて落城した。
熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上に建てられている。長久三(一〇四二)年、志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めた。現在の社殿は昭和三十二年に改築されたものである。社殿の西側には今でも空濠の跡を見ることができる。

平成五年二月
板橋区教育委員会
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いたばし風土記より引用ーーーーーーーー
熊野神社のある丘陵全体が志村城跡でもあるわけです。
神社は平安時代の長久三年(一〇四二)この地方の豪族志村将監が紀州の熊野神社の分霊をここにお祀りしたのが始まりだと伝えられています。
源義家が奥州の安倍頼時を討つため出発の際この神社に戦勝を祈ったとも伝えられます。
神殿は舌状台地のほぼ中央部にあたります。本殿の裏側に小山の姿が見えますが、これは古墳で、その塚の上に建てられています。
江戸時代・明治時代の改築の時、直刀や鏡や合子(香入れ)が発掘されたことから古墳というのは経塚ではないかと考えられます。
この社を中心に志村城が作られ、土地の豪族志村氏も住んだのかも知れませんが、康正二年(一四五六)千葉氏が板橋地方に移入した時から千葉隠岐守信胤(のぶたね)が赤塚城の前衛拠点として守りをかためていたといわれています。
この城は約七十年後の大永四年(一五二四)に小田原の北条早雲の子氏綱が、江戸城から逃げ出して川越城へ走る上杉朝興を追ってここで追いつき、その戦いにより落城したと伝えられます。
上杉家と千葉家は主従にも似た間がらですから、あるいは朝興の軍が志村城に逃げこんで、戦いの巻き添えを喰って落城したかもとも考えられます。
この大永のころには志村城主は千葉氏から篠田五郎に代替りしていたのか、延命寺縁起の開基見次権兵衛は篠田の家臣と記録されていますし、初代城主の千葉信胤の子孫は全然記録がありません。信胤の重臣に篠田五郎なるものがいて、主君のあとをついだとの見方も出てくるわけです。
この城は中世の平城の典型的な姿です。地形の天嶮を利用し、北の山すそまで荒川の水がしたし、南に出井川の流れをめぐらせた要害堅固な城だったようで、丘上の現志村小学校コパル工場敷地を本丸に、熊野神社社殿の下から学校校庭にかけて空壕を掘り二の丸、さらにコパル第二工場と神社境内境にも壕を設けて三の丸に区分けし、山のへりにも空壕がめぐらせてありました。コパル第一工場の建設で山頂の桧林が整理されるまで十数個の古墳がありまして、最後の一番大きなお伊勢塚と呼ばれた円墳がこわされたときには一体分の人骨が掘り出され、現在も事務所の前に移設埋骨されて古墳のおもかげを留めております。
熊野神社が現在のように銅葺屋根に改められたのは昭和三十二年です。それまでは萱葺のゆかしい社で、今の本殿の右側に建っている絵馬堂と同じようでした。この絵馬堂が明治の改築までの本殿ではないかと想像されます。
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社殿の正面からは塚の上に建てられているようにはあまり見えないが、社殿の左側(西側)、写真上から2〜5枚目に回ると塚上にあるとよく分かる。
また、志村城跡の名残で、こちらの西側には空濠が現存しており、社殿の後ろすぐに台地の崖となって大変眺望が良い。
空濠は写真ではなかなか伝わりにくいが、次回紹介したいと思う。
また、絵馬堂に奉納されている絵馬を実際に近くで見たことがあるが、とても素晴らしいものだった。天領だったゆえに、潤沢な資産があった農家が多かったからと言われている。

※社殿の西側と裏側の映像はこちら(mp4 720×1280 55.5MB)とこちら(mp4 720×1280 22.8MB)

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■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀の主<ヌシ>の大蛇がまつり込まれている庚申さま(<庚申塔>神谷橋庚申通り商店会) 古墳 観音塚

■板橋区南常盤台 天祖神社の西にあった<猫塚>と<狐塚>、小茂根四丁目の<猫塚(ねこ塚)>、大和町(根村)の<狐塚>

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2022 1/4 『新年おめでとうございます』

新年おめでとうございます。
豊かな一年となりますように。

年末は街にたくさんの人が出ていました。
充実した年末年始でしたが、飲みすぎで胃腸の調子が悪く、昨日は半日寝ていましたが、少しずつ食欲も戻り、今日早朝に雑炊を食べてもおいしく感じるようになったので、明日にはだいぶ良くなっているはず。
食後は3時間ほど読書をして満足満足。
この5−6年で胃もたれというものを経験するようになりました。

さて、走り納めも走り始めもぜんぜん気にしないようになりました。
近年はあまり走れない環境になりましたが、昨年は726kmで月に平均60kmで、昔は月に100km平均だったのでだいぶ減っていますけど、今でも十分に気持ちが良いのと、体をラクに動かせるだけでも十分だったりします。とにかく移動が楽ですから。

今年はいつもよりもさらに大変な年となりそうなので、心してかかるようにしないとと思っているので、飲みすぎ食べすぎにも注意して。
ただ、元気だとあまり寝ないし、すぐにお腹もすくし飲みたくなるのが困りのタネでもあり。
変なのかどうかよくわからない内容になりましたが、家族やまわりの方々が幸せだと思えるように前に進んでいきたいと思います。

※無化調のとろとろのおいしいチャーシューを使った叉焼丼 ちりめん山椒の出汁巻き卵と葉きゅうりを添えて

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