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2021 5/7 『田端 不動の瀧(道灌山の滝)・不動坂 谷田川沿い水神稲荷神社』

地図の黒丸部分、田端駅南口にある石段は不動坂と呼ばれている。
かつて坂の中ほどにお不動さんが祀られて、滝が落ちていて不動の瀧と呼ばれていた。
その姿は<江戸の華名勝会 つ 九番組 坂東三津五郎/下田畑不動の滝/田畑>に描かれている。
台地の下に川が流れているが、これは谷田川(藍染川)か、もしくは方角から見ると音無川(下郷用水・石神井用水<石神井川、王子大堰で分水された用水のうちのひとつ>下町を潤した用水)かもしれない。

『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用ーー

田端東台通りから、国鉄田端駅の東わきを下る石段で、坂にあった不動尊の石像から不動坂とよばれ、もとは田端新町の方に下る長い坂であったというが、坂の大部分が国鉄線路の貫通によって分断されて、今は坂の一部が田端駅東口に通じる短い石段坂となって残っている。
もとの興楽寺の寺領は、いまの田端駅をふくむ広大な地域で、坂上にあった不動尊も同寺の仏像の一つであったが、現在これは町内某氏の邸内に安置されているという。そして興楽寺にある不動尊は、別のもので、田端駅の機関車車庫に埋もれていたものが同寺にひきとられたものだという住職の談話である。
いわゆる田端台には、大正から昭和初年にかけて、芥川竜之介をはじめ、室生犀星や滝井考作などの文士たちが住んだ。当時の新聞地田端は、今の文士とはちがって金にめぐまれない、孤独で芸術的野心に燃えた人々にとっては住みつきやすい町であったと思われるが、滝井考作の「無限抱擁」(大正十年作)には次のような寸描がある。

信一とS・Mとの二人づれが田端の改札を出た。つきあたりは崖、崖の根に沿うて左の方に道は曲がってゐるが、又右の崖の横腹には乙字形に小径がついてをる。今改札口を出て、下の道をゆく者と性急に崖の小径をとる者と群れは二つに分れる。崖に登るのは近道をとるのである。信一は家路ちかい崖の小径までゆくと、つれは引留めて、「疲れるから、本道から」とさう云った。聞いて、信一はある憶出からビクッとした。S・Mの疲れると云ふその言葉が頭にひびいた。彼は崖の乙字形の小径を見捨て、つれの方に従った。
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※田端東台通りは田端高台通り
※田端駅東口は現 南口
※興楽寺は不動坂の少し南にある与楽寺のことか?

<王子七滝考>でも触れているように、武蔵野台地(十条台や田端、上野台)東縁からは昔も現在(滝ではないが湧水がある)も、枯れているものもあるが、小さな滝がいくつもあったことが分かっている。
この不動の瀧も枯れてしまってはいるが、錦絵(江戸の華名勝会 つ 九番組 坂東三津五郎/下田畑不動の滝/田畑)にも描かれている。
また、不動坂の脇には水垢離場(みず こりば)もあったようだ。
この不動の瀧近くには田端の滝もあったようで、少し北上すると飛鳥山から小さな水が落ちていて、小さな池を作っている。(飛鳥山の小滝)

この不動尊は、谷田川通り沿い(暗渠になって消滅した谷田川沿い)に移され、田端不動尊と呼ばれていて、近くには水神稲荷神社もある。
不動の瀧より東縁を南下すると、道灌山遺跡がある。
武蔵野台地の東縁、北区の赤羽にあった稲付城、豊島氏の居城を落城させた平塚城(西ヶ原 平塚神社)、必勝祈願した駒込 妙義神社そして道灌山、江戸城...これらのルートを辿ると、太田道灌の闘いや生き様の軌跡を知ることができるが、のどかだった武蔵野を荒らしたのは太田道灌であることも知っておくべきことだろう。

※2021年7月8日 写真上から5−6枚目を追加。下記を加筆。
※下記の記事によると<下田端 不動の瀧>は<道灌山の滝>のことで、田端 不動の瀧のことだと書かれている。
<第19号 荒川ふるさと文化館だより>より引用ーーーー
身近な場所にあった滝
その証拠に、荒川遊園には男滝・女滝があった。
昭和初年当時、「東京に最も近き避暑地 山水木石園内弐万坪完備 暑さ知らずの仙境 涼味万斛、風景絶佳 有名なるあら川大瀧あり 安全飛行塔数十台建設」というのが売り文句だった。
つまり、昭和初年頃まで滝は納涼・避暑のための施設だった。
また、小台の渡しの渡し場にあった料亭・清水滝にもその名の通り滝があった。
井戸から引かれた水は、奇石を積んだ上に生い茂る楓や熊笹の間から、弧を描いて約三丈(9m)ほど水が流れていた(石田龍城『明治秘話』)。
尾久の二つの滝はいずれも玉電(現都電荒川線)に乗って行くところだったが、徒歩が主流の時代では、歩いて行ける範囲、つまり江戸・東京近郊にいくつかの滝が見出されていた。
比較的身近なところでは名主の滝(現北区)が挙げられる。その他、音羽(現豊島区)・角筈十二社(現新宿区)、等々力(現世田谷区)・目黒(現目黒区)などにも滝があり著名だった(以上、『江戸学事典』『江戸東京学事典』)。そして実は、あの道灌山にも滝があった。もっともそれほど有名ではないが。(※上から2枚目の<江戸の華名勝会 つ 九番組 坂東三津五郎/下田畑不動の滝/田畑>)

道灌山の滝
安政5年(一八五八)8月4日、江木鰐水(えぎがくすい)という人がこの滝を訪れている(以下、『大日本古記録 江木鰐水日記』上)。鰐水の日記によれば、この滝は与一という農夫が作った人工の滝で、樋で水を引き、流れ落ちる滝つぼには板が張られ、座って水しぶきを浴びるところになっていた。脇には茶屋まであったという。

造られては壊された
近くにあるなら一度は行ってみたいものだが、今はもうない。
道灌山の滝は明治38年(一九〇五)に完了する鉄道線路敷設工事により、崖自体が削り取られ、消滅した。
一般に滝は自らの水の流れによる侵食により後退したり低くなったりして、ついには消滅、ないしは滝とは呼べない形になったりするそうだが(『水の百科事典』)、江戸・東京近郊の滝は造られ、そして壊されるものだったらしい。
荒川遊園・清水庵もその例にもれない。
このことは滝に対する需要が生まれ、なくなったことと重なっている。
納涼という行為の変化でもあると言えるだろう。
かくして、夏の季語としての滝のもつ語感は失われていった。
多くの人びとにとって滝は、鉄道や車に乗っていく、より遠い場所になっていった。

鰐水の眼
最後に鰐水の日記に戻ろう。
鰐水はこの日の日記を次のように結んでいる。
都会の者は繁華なものを見る目はあるが、「山水遊観」を見る目がないので、こんなものを滝だというのだ、笑うべし、と。
というのも、道灌山の滝が、高さ1間半(約2.7m)だったからである。
当時の江戸の人びとにとって紛れもなく滝だったが、福山藩の儒学者で医師だった鰐水には、この流れ落ちる水を滝とは認めがたかったのである。
地方のみならず外国の有名な滝へ行く機会があり、写真や映像で目にすることがある今日の私たちは、鰐水と同じ眼をもっているのではなかろうか。<亀川泰照>
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2021 5/5 『文京区目白台 腰掛稲荷神社』

地図の黒丸部分、目白台の際に腰掛稲荷神社がある。
境内のほとんどが駐車場になっていて、特別天然記念物の菊化石が奉納され、庚申塔が二基ある。
境内の下にはかつては弦巻川が流れ、音羽通り(護国寺の参道)の向う側には水窪川も流れていた。

<創建年代は不明である。
江戸時代初期は護国寺もなく、辺りを見渡せる見晴らしの良い場所で、座るのに丁度良い大木の切株もあった。
ある日、江戸幕府初代将軍徳川家康か第3代将軍徳川家光が鷹狩に当地を訪れ、この切株に腰掛けて、景色を絶賛した。
そして稲荷の小祠を拝して立ち去ったという。
幕府は、この場所が「将軍の縁の地」となったことから、切株を竹矢来で囲み、不敬行為を防いだという。>

案内板から引用ーーーーーーーーーー
徳川三代将軍家光公が鷹狩りで当地を訪れた際、ご休息された切り株の傍らにあった祠に大願成就を祈願され、見事に徳川三百年の礎を築け上げたことから正一位腰掛稲荷大明神と奉称し、江戸時代より氏神としてあつく近隣の崇敬を受けたのあ当神社の始まり。
腰掛という言葉に、大志を胸に秘めて一時、仮に身をおくという意味を持たせるようになったのがちょうど江戸時代のこの頃からと言われ、参勤交代などで志をもって江戸に来た侍や商人、奉公人たちの一時腰掛けの心の支えとして、また近年を、縁結びや合格、就職、転職、大願成就祈願など、これから新しい道へ踏み出したい人に開運のご利益のあるお稲荷さまとして崇敬され、今日に至っている。

祭神 豊受姫命 例大祭九月十日前後の日曜日
稲荷神社
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菊花石(きくかせき)
岐阜県本巣郡根尾村に産する岩石で、割った切面に美しい菊花状の模様が現れる。近年庭石や飾石として珍重されている。赤褐色、朱、紫などの岩石の地肌の中に白や紅色の菊紋が点在する。中には菊紋の直径が20cmに及ぶものもある。京都や秩父地方でも産出されるが、根尾の菊花石のように見事なものは他に例がない。

平成21年11月・崇敬者より奉納される
■総重量 1.1トン ■高さ 97センチ ■幅 85センチ
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写真二枚目、弦巻川が削って出来た崖は高さがある。階段の手すりがクラッシュしていたが、これは車が突っ込んだ跡だろう。崖から転落することなく不幸中の幸い。

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2021 5/4 『東武東上線大山駅 6・8・10のサイン』 

たまに乗る東上線....人身事故があまりに多いので、移動に楽だけど乗りたくても乗らずにいるという方が良いか。
大事な面談がある日に、午前中に人身事故だったり、ヘトヘトになって池袋方面へ帰る時に、人身事故だったり...1時間は缶詰状態になりますよね。

さて、再開発でビジーな大山駅周辺だが、古くからの商店があちこち撤退しているのは悲しい限り。駅の移動・踏切撤去に高架、駅前ロータリー、タワーマンション建設....そんなに必要なのかなと思ったりもするがどうだろうか。
そんな大山駅はカーブになっているために、大山対策としてかつては(今もか?)先頭車両の頭に小さい前照灯が2つ付いていたと記憶している。
上りホームには今も6両・8両・10両編成の停車サイン?が今も残っている。今は全て?10両編成のみの運行だと思うが、今から40年くらい前は急行6両編成、鈍行8両編成など、様々な長さの列車が運行されていて、ふと目にしたこのサインがかつての生活などを思い出させてくれた。そして気づけば新しい駅が3つも増えていた。

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■谷端川(千川・小石川・礫川) 猫又坂(猫貍坂、猫股坂)と猫又橋 2021年5月4日加筆しました。(一番下の錦絵)

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