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2020 4/30 『石神井川 金剛寺にある松橋弁財天洞窟への道標と音無もみじ緑地 王子七滝 松橋弁財天洞窟跡』

地図の黒丸部分、石神井川に沿って金剛寺があり、隣に音無もみじ緑地公園がある。(MACのマップでは音無さくら緑地と表現されているのは間違い)
この公園は1970年代の護岸工事の際に整備された公園で、かつては松橋弁財天洞窟があり、江戸時代から観光名所としておおいに賑わったという。
一番下の“名所江戸百景 王子瀧の川”が松橋弁財天洞窟を描いたもので、東屋で休憩したり、川に入って滝に打たれたりしている様子がわかる。

金剛寺の案内板から引用ーーーーーーーーーー

治承4(1180)年8月、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れましたが、上総・下総を経て隅田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神に向い、ここから鎌倉に入って政権を樹立します。
この途次(とじ)の10月、頼朝は軍勢を率いて瀧野川の松橋に陣をとったといわれます。
松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って松や楓(かえで)があり、深山幽谷(しんざんゆうこく)の趣をもっていました。
崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていましたが、頼朝は、弁財天に祈願して金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。
金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これは、この地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由来するからです。

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音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡の案内板から引用ーーーー

もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。
上の絵は、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。
両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。
画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。
崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。
『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。
また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。
旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。
松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。
滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。

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写真上から2−3−4枚目、金剛寺境内山門を入って右側に、松橋弁財天洞窟への道標がひっそりと建っている。影の関係で見にくために補正しているので、少し読みやすくなっているだろうか。
“右 岩屋辨財天道”と刻まれているのがわかる。
行楽客はこの道標をみて松橋弁財天洞窟へと遊びに、涼をとりに行っていたっことだろう。 
上記にもある通り、“松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていた”ので、“岩屋”と刻まれたということだ。
護岸工事に伴い、岩屋は壊されてしまったのはとても残念であるが、人命に関わることなので、致し方なしということでしょう。
岩屋の写真などは見たことがないが、どこかに収蔵されているのだろうか。

(写真は今年と4年くらい前に撮影したものです)

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【過去記事】
■石神井川 旧河道 音無もみじ緑地 王子七滝 松橋弁財天洞窟跡
■北区滝野川一丁目 千川上水 王子分水(鎌倉街道・千住道と一部重複)との三叉路にある庚申塔 王子七滝 松橋弁財天(岩屋弁天)への道標
■王子七滝 松橋弁財天洞窟跡 桜並木 音無もみじ緑地の小さな滝
■北区滝野川 消防署建設の際に潰した狐塚の狐の祟り<滝野川伏見稲荷神社> 狐塚の坂と岩屋弁天(松橋弁財天洞窟)・正受院(滝不動)への道標
■北区滝野川 重吉稲荷神社と平尾一里塚の東側の小道にあった廻国塔

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2020 4/28 『石神井川 赤羽線(埼京線)際 板橋四丁目の湧水』

地図の赤ピン部分、航空写真(1947年)のクロス部分に湧水があるという。

白黒の写真は、都立北園高等学校の教師だった奥山正氏が書かれた“加賀藩江戸下屋敷”から引用させていただきました。

この本は1987年発行なので、30数年前のことで、この時はまだ湧水があったのだが、板橋区の湧水地点一覧を見ると、どうやら現在は枯渇してしまったようだ。
【過去記事】
線路をはさんで逆の線路際には、石神井川 板橋いこいの森があり、こちらにも湧水があったような雰囲気なので、水源は同じだったのだろうか。
そして、下流へ200mほど行くと石神井川 音無こぶし緑地の湧水があり、こちらはこんこんと湧きだしている。

“加賀藩江戸下屋敷”から引用------------
寛政の古図に、石神井川下流の河べり、北東境道の東南に「清水」と書かれている場所がある。
『江戸下屋敷絵図』にそれが泉として紺青に描かれている。この清水は、現在清い湧水として赤羽線際の◯◯家の邸内にその跡をとどめている。
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と、書かれているが、江戸下屋敷絵図をみると....よく分らずだった。

◯◯は伏字としました。

【過去記事】
加賀藩中屋敷跡 旧駕籠町
加賀藩と黒作り
加賀藩江戸下屋敷 奥山正 著 人んとこ荒らすな
加賀藩前田家の駕篭
加賀藩上屋敷跡 東京大学 赤門
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡

東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡

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2020 4/27 『旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺の<寛文の庚申塔> 平尾一里塚附近にあった<加賀藩前田家下屋敷 裏御門>を移設した<山門>』

一番上の地図、黒丸部分に観明寺があり、庚申塔は参道入口すぐにある。
大きく立派な庚申塔なので、通る人がよく立ち止まって見ている。

案内板から引用----------------------

当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。
御本尊は正観世菩薩です。創建年代は暦応元年(一三三八)と伝えられていますが、不明です。
『新編武蔵風土記稿』には、延宝五年(一六七七)十月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。
明治六年、当寺の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請(勧請)しました。現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、このお不動様に由来します。
境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。
また、参道入口にある庚申塔は、寛文元年(一六六一)八月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和五十八年に板橋区の指定有形文化財になりました。

平成十二年六月
板橋区教育委員会

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観明寺が面している通りは旧中山道で、このあたりは不動通りと呼ばれていて、かつてとても賑わっていた市場は現在でも朝市として賑わっているそうだ。

二枚目の地図の青丸部分、かつてこの場所に板橋一里塚があり、旧中山道から北へのびている道が、加賀藩下屋敷へと通ずる裏御門通りで、屋敷の門が観明寺に移設されて山門として現存している。東大の赤門と同じ赤色が特徴的。
そして、加賀藩下屋敷にあった稲荷社も観明寺の境内に移された。

白黒の写真は、都立北園高等学校の教師だった奥山正氏が書かれた“加賀藩江戸下屋敷”から引用させていただきました。

【過去記事】
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 左甚五郎作の龍
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡

文化財を散歩する〜いたばし文化財ふれあいウィーク〜 2021年より引用ーーーーーーー2021年10月29日加筆

観明寺寛文元年庚申棟
旧板橋宿にある観明寺は、如意山と号する真言宗の寺院です。
現在、当寺の境内にあるこの庚申塔は、寛文元年(1661)の経年銘があり、区内で一番古く、その正面には青身で多臂(たび)の忿怒形をともなう青面金剛が刻まれています。
なお、青面金剛が刻まれた庚申塔としては、都内で最古のものとなっています。
庚申塔は、庚申時の供養のために造立された塔で、十五世紀に南関東で庚申待板碑として出現しています。庚申信仰は、「かのえさる」の日の信仰であり、平安時代に宮廷で正月庚申の夜の徹夜行事として行われています。その源流には諸説ありますが、中国の道教の教えに、人体に棲む霊物である三尸が、庚申の夜に人体から抜け出して、人の罪や過失を天帝に報告するというものがあり、その報告の機会を与えないために徹夜をする「守庚申」に求める考え方があります。
なお、当像は190cmに及ぶ大きさがあり、左側面には願主である豊田八兵衛といった平尾を中心とする人名が確認されるなど、当時の下板橋宿が持つ経済力の一端がうかがえます。
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※多臂:前足の多い動物

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2020 4/25 『板橋区前野町 <常楽院年不詳阿彌陀三尊種子板碑(じょうらくいんねんふしょうあみださんぞんしゅじいたび)>と板橋区小豆沢 <龍福寺建長七年板碑>』

常楽院収蔵土器や境内を案内してもらったが、写真を撮るのをすっかり忘れてしまったので、絵はがきと資料から引用。
鎌倉時代の古く貴重な板碑。

絵はがきから引用----------------------
常楽院年不詳阿彌陀三尊種子板碑(じょうらくいんねんふしょうあみださんぞんしゅじいたび)
板橋区登録有形文化財(考古資料)平成2年3月30日登録

板碑とは、中世に死者の供養のために建立された供養塔の一種です。
地域によって形状や材質が異なりますが、基本的な構造としては、板状に加工した石材に梵字(種子)や被供養者名、供養年月日、供養内容が刻まれます。
常楽院の個人墓地に立つ板碑は、旧武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県一部)で広く分布する武蔵型といわれるもので、山形の頂部は高く鋭く、二条の切り込みが刻まれ、その下に幅の広い額部があります。
碑面には薬研彫りで阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊の種子がありますが、蓮花座は刻まれておらず、また紀年銘等も文字の痕跡はありますが、磨減しているために明らかではありません。
板橋区内にある板碑で年代のわかる最古の板碑は、志村延命寺の建長4年(1252)の板碑で、それに続くのが小豆沢龍福寺の建長7年(1255)の板碑です。当板碑は、建長7年の板碑と極めてよく似ていることから、同じく建長年間に建立されたものと考えられています。

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下から1−2−3枚は板橋区小豆沢 龍福寺建長七年板碑。

“龍福寺には、かつて二十余基の板碑があって、板碑寺とも呼ばれていましたが、先の大戦の空襲で、その多くが破損し、現在では昭和五十八年度に板橋区の指定文化財となった建長七年(一二五五)の板碑など七基が残るだけです。”
空襲で破損したり焼失した貴重な物は数多くある。
とても悲しくあまりにも残念なこと。

龍福寺建長七年板碑
板橋区指定有形文化財(考古資料) 昭和59年2月22日指定
板碑は中世に造立された板状の供養塔の一種で、造立の目的は死者の冥福を祈る追善供養や生前に死後の菩薩のための仏事を行う逆修供養(ぎゃくしゅうくよう)が主なものとなっています。区内に所在するものは、埼玉県の秩父地域で産出される緑泥片岩(りょくでいへいがん)を石材とする武蔵型と呼ばれるもので、そこに造立年月日や法名、仏を表現する種子などが刻まれています。
この板碑は、区内で2番目に古い建長7年(1255)に造立された、高さが160cmの大型のもので、表面には「成善」の名前のほかに、梵字(ぼんじ)のキリーク(弥陀)を主尊とし、それにサ(観音)とサク(勢至)を配した、弥陀三尊が刻まれています。via

【過去記事】
板橋区 前野町地区の遺跡と前野町熊野北遺跡 常楽院収蔵の土器(前野町式土器<弥生土器>)
板橋区 出井の泉跡(出井川)

【豊島八十八ヶ所霊場】
■板橋区
板橋区仲宿 文殊院 子の権現
板橋区東新町 安養院 仏教美術展
徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 扁額
板橋区東山町 板橋城跡 赤塚城跡
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の絵馬
旧中山道 板橋宿 観明寺 左甚五郎作の龍
板橋区 前野町地区の遺跡と前野町熊野北遺跡 常楽院収蔵の土器(前野町式土器<弥生土器>)
■豊島区
巣鴨 眞性寺の地蔵菩薩
■北区
赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域と稲付城跡にある静勝寺から宝幢院の道標

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2020 4/24 『肌触りの良い布+不織布マスク』

筋骨隆々…男性用専門下着メーカーから、緊急で発売されたマスク。
モダール92%、スパンデックス8%で、とても肌触りが良くて気持ち良すぎ…交換できる不織布をかませることができるので経済的。
ただ、メンズショーツでノーズとマウスを覆っているようで、肌がとても弱く、免疫力が低い高齢の家族に渡すか少し逡巡したが...妻には好評です。
とても良い製品です。

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信から引用 via
「外出自粛が続いていますが、時々のジョギングや散歩はOKと言われています。以前より、ジョギングをする人が増えているようにも思います。新型コロナウイルスは感染しても多くの人は無症状です。発症する場合も、潜伏期にすでに感染力があると考えられています。ジョギングできるくらい元気でも、実は感染しているかもしれません。走って大きな息をするときは、咳やくしゃみと同じように周囲への配慮が望まれます。マスク、もしくはバフ等でジョギングエチケットを心がけましょう。」

3月末から走っていると、ランナーがぐっと増えたという印象で、この2週間くらいでぐぐっと増えた。
ある情報から...飛沫より呼気から出るウイルスの方が小さく、肺の深くに入りやすいという。
なので、最近ランニングする時にもマスクをつけているが、これがえらく息苦しい。。あれこれマスクを試してみよう。
というか、全然人がいない時間帯に走る方が良いのか。
走るのも億劫になるなぁ。。

今後さらにじっとの時期....免疫をつけて予防を...ディフェンスを。
平穏で暑い日が訪れますように、、難しいかな。
先日、仲間とオンライン宴会をしたけど、けっこう楽しかった....会えなくても顔をみて飲んでいるといつものようにリラックスするので、これも相当良いと思った。

#コロナに負けるな

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2020 4/23 『板橋区 前野町地区の遺跡と前野町熊野北遺跡 常楽院収蔵の土器(前野町式土器<弥生土器>)』

地図の黒丸付近が前野町遺跡と言われる地域。
遺跡の前面には今は暗渠になった出井川がかつて流れていて、地図の左下へ数キロ行けば石神井川と田柄川へ、右下へ数キロ行っても石神井川が近くに流れているので、かつての人々にとっては生きていく上で重要で便利な地域だったことがよく分かる。

見次公園の開園は1953年(昭和28年)で、都内でも数少ない湧水による池として有名だが、1947年の航空写真を見ると、のちの見次公園となる池の湧水は四角形の黒い部分なのだろうか。
見次公園の湧水は出井川の源泉のひとつでもある。

案内板から引用----------------------
案内板は地図のイオンの斜め向かいの集合住宅の敷地入口にある。

前野町三丁目から五丁目にかけては、泉町二四番の区立清水児童遊園部分の湧き水を主な源泉として、現在の首都高五号線部分を流れていた出井川に沿い、古くから数多くの集落(むら)が営まれていました。
昭和十年代、前野町を含む志村一帯は関東大震災を契機とした土地区画整理が行われ、遺跡の発見が相次ぎました。
特に前野町地域は弥生時代後期から古墳時代前期(今から約一七〇〇年前)にかけての集落が数多く発見され、それから採集された土器は、南関東地方の弥生時代終末の標識型式として「前野町式」と名づけられたため、前野町の地名は広く考古学界に知れわたりました。
なお、それらの標識となった土器の多くは前野町四丁目の常楽院に保存されており、東京都指定有形文化財となっています。
前野町熊野北遺跡は、この案内板を中心に周囲五〇〜一〇〇メートルの広がりをもつ遺跡で、昔の地名(字)「熊野」の北域に位置しているところから名づけられています。
平成十年八月、同遺跡範囲内の前野町三丁目四四番におけるニッカン見次ハイツ建設計画に伴い区教育委員会が試掘調査を行ったところ、遺跡が残っていることが確認されたので同年八月から九月にかけて本調査を実施しました。
ここは昭和十三年当時工場建設に際し遺跡の存在が確認され、弥生時代後期の集落遺跡前野町遺跡第一地点と呼ばれた場所でもありました。
本調査の結果、弥生時代後期の集落は以前の工場建設に伴う整地により残っていませんでしたが、今まで確認されていなかったそれより古い縄文時代後期(今から約三八〇〇年前)の住居跡三軒と、煮炊きなどに使用した土器の破片などが数多く発見され、前野町地区の歴史に新たな事実が追加されました。

平成十三年三月
板橋区教育委員会

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絵はがきから引用----------------------

常楽院土器収蔵庫所蔵品一括(板橋区登録有形文化財<考古資料>平成4年2月28日登録)
前野町遺跡出土弥生土器(東京都指定有形文化財<考古資料>平成11年3月3日指定)

昭和初期〜10年代にかけて前野町を含む志村地域一帯では、関東大震災を端緒とした土地区画整理事業が実施され、その工事により遺跡や遺物の発見が相次ぎ、発掘調査も数多く実施されました。
昭和15年(1940)、守山聖真氏(1888〜1967)が常楽院十九世住職として赴任すると、本務のかたわらその工事等で彫り出された土器・石器類の収集に努め、常楽院にて保存・公開しました。このことから、常楽院は「土器寺」とも呼ばれて親しまれてきました。
これらの資料は、板橋区及び前野町地域の原始・古代の歴史解明に欠くことのできない貴重な資料として、全体が区の登録有形文化財となっています。
また、そのうちの「前野町遺跡出土弥生土器」53点は弥生時代終末の「前野式土器」の標識土器であり、考古学研究史上重要な資料として東京都指定文化財となっています。

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昨年の文化財ふれあいウイークで常楽院を見学をさせてもらい、たくさんの土器などがあって貴重な機会だった。
東日本大震災でショウケース内に被害があったとのことで、修復してようやく公開することが出来るようになったと、ガイドさんがおっしゃっていた。確か常時公開はされていないと思う。

【過去記事】
板橋区 出井の泉跡(出井川)

田柄川の水源と茂呂遺跡
田柄川
石神井川 公開された茂呂遺跡(旧石器時代が日本に普遍的に広まっていたことを証明した遺跡・黒曜石製 茂呂型ナイフ形石器の発見)
板橋区 栗原遺跡の竪穴住居跡と長嶋茂雄

板橋区 中台馬場先貝塚

板橋区 根ノ上遺跡
板橋区 稲荷台遺跡

弥生式土器の発見地

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2020 4/22 『板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標』

地図の黒丸部分の交差点に豊島八十八ヶ所巡礼の道標がある。
川越街道からのびる大谷道は、かつて大山西銀座商店街でもあった。(かつてから営業をされている商店が一部あるが、大部分が立ち退き、撤退をした)のどかな雰囲気でも例大祭などの時は活気があり素敵な商店街だったのを憶えている。40年ちかく前だが、よく走り回って、大谷口や向原の友の家に遊びに行ったのをよく思いだす。
写真下部に掲載していある昔の写真は“大山西町発展史”から引用させていただきました。

案内板から引用----------------------

この道標は、明治四十一年(一九〇八)十一月に、豊島八十八ヶ所の礼所が開かれた際に建立されたものです。
正面に「豊島八十八ヶ所第八十番新設弘法大師霊場 大谷口西光寺」、右面に「右大師道 二丁 大谷口西光寺 願主大野萬蔵 大野清吉」、左面に「左 あらい薬師道 明治四十一年十一月」と刻まれています。
豊島八十八ヶ所は、行基・弘法大師(空海)の旧跡とされる四国豊島八十八ヶ所巡礼をならい、現在の板橋区をはじめ、北・練馬・荒川・新宿・豊島・中野区に点在する88の真言宗寺院を礼所として、開かれた霊場巡礼で、その開創には日露戦争の戦没者を慰霊する目的があったといわれています。
また、この場所は、西光寺の北を通過して大谷口・向原・茂呂から白子へと向かう川越街道の間道の「大谷道」と、川越街道から南下し中野区の新井薬師方面へと延びる「薬師道」がいったん合流して、再びそれぞれの方向へと分岐する地点にあたります(大師道は西光寺までの大谷道の呼称)。
この碑は道しるべとしても利用されてきました。

平成十五年六月
板橋区教育委員会

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豊島八十八ヶ所は日露戦争の戦没者を慰霊する目的だったのですね。
道標の刻まれた文字は写真では少し読みにくいが。
刻まれた文字、願主の大野さんは、大谷口に古くから住んでいる私の友の親戚(一族)だろうと思う。

薬師道を真っすぐ進むと、中野〜三宿へと繋がっていて、環状6.5号線とも言われている。
大谷道を北西に進んで行くと西光寺があり、その先の氷川神社へ向かう交差点に庚申塔が大切にされている。

“大山西町発展史”から、一番下の地図に、大谷道と川越街道の交差点あたりに千川上水を使った水車が描かれている。

【過去記事】

上板橋宿と大山福地蔵尊
町民を癒し見守る大山福地蔵尊

古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)
旧中山道と旧川越街道をつなぐ小松屋横町道
ハッピーロード大山商店街 小松屋横町道に佇む“命”の碑
補助第26号 板橋区大山 山中通り商店街

古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
谷端川と池袋の名の由来 古道 高田道

板橋区大山西町の用水路
石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所

千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
分水嶺、千川上水調節池跡
千川上水 喜内古屋水車跡
千川上水 水神様
豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑

板橋区栄町(大山)養育院 渋沢栄一
電話番号の表札

田柄川の水源と茂呂遺跡
田柄川
石神井川 公開された茂呂遺跡(旧石器時代が日本に普遍的に広まっていたことを証明した遺跡・黒曜石製 茂呂型ナイフ形石器の発見)
板橋区 栗原遺跡の竪穴住居跡と長嶋茂雄

【豊島八十八ヶ所霊場】
■板橋区
板橋区仲宿 文殊院 子の権現
板橋区東新町 安養院 仏教美術展
徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 扁額
板橋区東山町 板橋城跡 赤塚城跡
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の絵馬
旧中山道 板橋宿 観明寺 左甚五郎作の龍
板橋区 前野町地区の遺跡と前野町熊野北遺跡 常楽院収蔵の土器(前野町式土器<弥生土器>)
■豊島区
巣鴨 眞性寺の地蔵菩薩
■北区
赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域と稲付城跡にある静勝寺から宝幢院の道標

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