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2020 9/30 『北区王子 飛鳥山 渋沢栄一邸庭園 曖依村荘跡』

渋沢栄一邸のほとんどの施設は空襲によって焼失してしまったが、最後の将軍 徳川慶喜が撮った写真集「将軍が撮った明治」に、渋沢栄一邸や庭園、庭園から低地への眺望、浅野家西ヶ原別邸住居(昭和まで生きた最後の藩主・大名(広島藩) 浅野長勲 <現 滝野川女子学園>)や庭、庭からの眺望などの写真も掲載されている。

案内板から引用ーーーーーーーーーー

<曖依村荘>
飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が、1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘」跡です。
約28,000uの敷地に、日本館と西洋館をつないだ母屋の他にも色々な建物が建っていました。
住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部とともに、よく保存されています。

<無心庵跡>
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貸一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

<邀月台>
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。

<茶席待合跡>
茶席「無心庵」への途中にあった待合です。
腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。
現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

<茶席門跡>
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられたいくつかの茶席門の一つです。
この門をくぐってすぐに水の流れがありました。
流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。
これらは、1945(昭和20)年にの空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

<兜稲荷社跡>
日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。
1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。
その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。
この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。
その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。
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跡だけにほぼ何も無く、案内板も汚れているので、訪れる人はそれほど多くはないのだろう。
この跡地から崖下に下っていくと“飛鳥山の小滝”がある。

遺跡が多く集っているこの地(台地上)に住めたら、とても気持ちが良いだろうなと思うが、遺跡が出てきたら大変だろう。

【関連記事】
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■板橋区栄町(大山)養育院 渋沢栄一
■現存する都内の一里塚

■徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 松平定信奉納の扁額と根村用水
■文京区春日(小日向) 徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
■巣鴨に住んでいた徳川慶喜 明治時代の巣鴨邸と江戸時代の巣鴨
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■一橋徳川家 屋敷跡の徳川マンション

■王子十五滝に加えて 旧渋沢家飛鳥山邸(曖依村荘跡)下 今も残る飛鳥山の小さな滝(十六滝)
■飛鳥山公園 飛鳥明神 飛鳥山の隠れ狛犬

■縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
■北区西ヶ原 鎌倉道につながる熊野坂 豊島郡衙へ
■北区 中里遺跡出土丸木舟

■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更)と補助83号線
■十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線

■駒込富士神社と古墳群
■赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
■北区赤羽北 稲荷の坂と赤羽台古墳群(赤羽台4丁目)
■王子七滝 消滅した王子 稲荷の滝後の“稲荷の崖線湧水”と王子稲荷裏古墳の狐穴(横穴墓)

■豊島区巣鴨 本妙寺 千葉周作の墓〜豊島区駒込 木戸孝允の駒込別邸

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2020 9/28 『北区王子 飛鳥山1号墳』

地図の黒丸部分、飛鳥山公園内に飛鳥山1号墳(古墳)がある。
同じ敷地、すぐ隣りには幕臣であり近代民主主義の父と呼ばれる渋沢栄一の邸宅があったが、空襲により邸宅や施設のほとんどが焼失してしまった。
この王子・赤羽・板橋地域は日本陸軍の施設が集中していたこともあり、被害が酷かったようだ。
本当に必要だったのかどうか疑問もあるが、度重なる東京への空襲によって、国宝や大切に伝わり続けてきた資料が多く焼失してしまったことは、日本の歴史を切り欠くことであり、日本の資産の消失だ。

案内板より引用ーーーーーーー
飛鳥山1号墳

古墳時代後期の直径31mの円墳。
平成元年の調査で周囲には幅3.8mの周溝が廻ることが確認された。
また、平成5年の埋葬施設の調査で、切石を使用した横穴式石室が確認されている。
石室は玄室の左側壁の最下段と床石の一部が原位置を留めている他は、大きく壊れていた。
石室の形態は残された側壁から「胴張型横穴式石室」と判断できた。
石室内からは太刀や刀子の破片、鉄鏃・耳環・管玉・切小玉・ガラス小玉が出土している。
公園内では他にも古墳の周溝が確認されており、古墳群が形成されていたようである。
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この古墳があるように、武蔵野台地の際にはたくさんの遺跡があり、遥か昔から人々にとって一等地である。
少し北上すると、武蔵野台地の東側から北側にかけて赤羽台古墳群がある。

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2020 9/25 『王子七滝 見晴の滝跡の湧水と芝坂』

北区王子付近にはかつて王子七滝と呼ばれた滝があった。
七滝とは、名主の滝・稲荷の滝・辨天の滝・不動の滝・権現の滝・見晴の滝・大工の滝で、現存するのは名主の滝のみとなっている。
いわゆる『王子七滝』は『東京名所図会』の内容をアピールするための手段だと、『王子七滝考』では書かれている。

7つ以外の滝にも触れており、また古地図などからも引用して地図に記載してみたら、15の滝があったことがわかった。

1:権現の滝
2:王子大堰(王子大滝)
3:不動の滝
4:弁天の滝(辨天の滝)
5:稲荷の滝
6:名主の滝
7:見晴の滝
8:飴屋の滝
9:山本家の滝
10:大工の滝
11:醸造試験所の滝
12:湯滝
13:水滝(木滝)
14:桶勘の滝
15:末広の滝(扇屋の滝)
加えて、飛鳥山の小滝

12『湯滝』と13『水滝(木滝)』は絵図に描かれているために正確な場所は不明(石神井川の流れに合わせるとこの付近)。
11『醸造試験所の滝』と14『桶勘の滝』は推定の位置で、11の醸造試験所の滝はかつての石神井川の名残である逆川沿いとも考えられるが、石神井川(音無川)沿いに落ちていた方が自然だと思う。

『見晴の滝』と『山本家の滝』は水量があったようだ。
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地図のピン付近の武蔵野台地の崖線に、かつて王子七滝のうちのひとつである“見晴の滝”があったという。

調査報告 第4号 王子七滝考より引用ーーーーーーー
「飴屋の滝」の北、芝坂の南に「見晴の滝」があった。地番でいうと、岸二ノ六ノ一四あたりで現在の宇田川整形外科の南側になる。
滝の水量はかなりあったらしく、滝壺もそれにつれて大きく深かった。
『広さも四〜五坪はあって、それが池として昭和になっても残っており、木が茂って日もあたらないような所になっていた』との話もある。
この滝は明治後期に、湯島に住んでいた豪商、「小栗兆兵衛が台地の上と下のあわせて三千坪ほどの土地を滝と一緒に買取り、別荘とした」ため、名称や所在地が次第に忘れ去られていってしまったものであろう。
この別荘を『「長尾園」と呼び、芝坂の上、南側の台地のところに見晴台があった』というので、滝の名前はこれから取ったものと思われる。
崖下の滝壺から流れ出る水を利用して別の池が作られてあり、『十坪(三十三平方米)近い広さがあって、舟遊びができたし、木の太鼓橋がかけられていた』という。
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上記の地番だと、写真2枚目のこの階段を上がったあたりに見晴の滝が落ちていたのだろう。
写真6〜8枚目、この階段の踊り場に向かって両側から坂になっているが、滝によって浸食されたのだろうか。
写真2〜5枚目、階段の横の崖から湧水があり、すぐに排水口へと流れて消えていっている。水量が減った“見晴の滝”の名残なのだろうか。

王子七滝の北限がこの“見晴の滝”となるようだが、この先、北側を進むと滝ではないが東十条駅手前とその先の荒澤不動の湧水がある。
荒澤不動の湧水はかつては環七の下あたりにあったようだが、現在の場所に南下したというので、昔も今も湧水が豊富なことがよくわかる。

写真下から1〜2枚目、“見晴の滝”の北側をぐるっと回ると、宇田川整形外科内科があり、左右に台地へと上がる急な坂と階段があり、登った先は日光御成道(岩槻街道)に出ることができる。この辺りが上記の見晴台があったのだろう。この急な坂は古い坂で、芝坂と呼ばれている。
南に下ると、台地から低地にかけて南大橋が架かっていて、眺望がとても素晴らしいことでも有名。
南大橋の下の南橋トンネルには水量が豊富な湧水が今でもあるので、下記の関連記事を参考に。

“見晴の滝”跡の湧水の映像は下記。
(720×1280 24.7MB mp4 こちら

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■王子七滝 名主の滝
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■石神井川 旧河道の露頭 音無さくら緑地
■石神井川 音無さくら緑地 攻撃斜面からの湧水(2020年6年22日映像追加)
■石神井川 赤羽線(埼京線)際 板橋四丁目の湧水
■石神井川 音無こぶし緑地の湧水

■石神井川(音無川)ほとりの王子 料亭 扇屋)
■古写真はわたしたちに何を伝えるのか?(幕末維新期の王子・飛鳥山・滝野川)
■王子の料理屋・扇屋 石灯籠と屋敷神(稲荷社 2021年4月7日加筆)
■飛鳥山公園 飛鳥明神 飛鳥山の隠れ狛犬(2021年3月12日加筆)
■王子 飛鳥山 さくら新道 共同洗い場

■武蔵野台地東部(十条台地) 北区岸町2丁目の湧水
■武蔵野台地東部(十条台地) 北区中十条3丁目 荒澤不動(荒沢不動)の湧水と馬坂
■武蔵野台地東部(十条台地) 北区中十条3〜4丁目の湧水と清水坂

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2020 9/23 『王子十五滝に加えて 旧渋沢家飛鳥山邸(曖依村荘跡)下 今も残る飛鳥山の小さな滝(十六滝)』

北区王子付近にはかつて王子七滝と呼ばれた滝があった。
七滝とは、名主の滝・稲荷の滝・辨天の滝・不動の滝・権現の滝・見晴の滝・大工の滝で、現存するのは名主の滝のみとなっている。
いわゆる『王子七滝』は『東京名所図会』の内容をアピールするための手段だと、『王子七滝考』では書かれている。

7つ以外の滝にも触れており、また古地図などからも引用して地図に記載してみたら、15の滝があったことがわかった。

1:権現の滝
2:王子大堰(王子大滝)
3:不動の滝
4:弁天の滝(辨天の滝)
5:稲荷の滝
6:名主の滝
7:見晴の滝
8:飴屋の滝
9:山本家の滝
10:大工の滝
11:醸造試験所の滝
12:湯滝
13:水滝(木滝)
14:桶勘の滝
15:末広の滝(扇屋の滝)
加えて、飛鳥山の小滝

12『湯滝』と13『水滝(木滝)』は絵図に描かれているために正確な場所は不明(石神井川の流れに合わせるとこの付近)。
11『醸造試験所の滝』と14『桶勘の滝』は推定の位置で、11の醸造試験所の滝はかつての石神井川の名残である逆川沿いとも考えられるが、石神井川(音無川)沿いに落ちていた方が自然だと思う。

『見晴の滝』と『山本家の滝』は水量があったようだ。
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上記の名主の滝以外にも、飛鳥山には小さな滝が存在する。
地図の青く囲った部分、飛鳥山の下、線路際を上中里方面へ進んでいくと飛鳥山公園の端に池がある。
武蔵野台地の崖から湧水が細いながらも途切れることなく小さな滝のように流れ落ちている。

都内、下町に住む人々は、小さな丘のことを山と呼ぶが、このような小さな水が流れ落ちるのを滝と称し、観光客を楽しませていたのではないだろうか。
かつて、この小さな滝は目の前を流れる下郷用水(石神井用水)にも流れ落ちていたのではないのだろうか。

この池と滝は園外からも見られるが、園内からはアクセスできる。
見晴し台の茶屋がある階段からはアクセスできないが、茶屋の隣りの柵で囲われた飛鳥山1号墳(飛鳥山公園の古墳)側から入って下っていくことができる。

王子十五滝にこの飛鳥山の小さな滝を加えて、王子十六滝と呼んでも楽しいだろう。

飛鳥山の滝の映像は下記。
(720×1280 48.6MB mp4 こちら

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■石神井川 音無さくら緑地 攻撃斜面からの湧水(2020年6年22日映像追加)
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2020 9/16 『北区十条仲原 稲付川に架かっていた游鯉園橋』

稲付川とは、板橋区を流れる石神井川の双葉町(根村)付近から分水し、ほぼ石神井川と平行に流れ、旧中山道の縁切榎のふもとを流れてその先の稲荷台の切通しを進み、姥ヶ橋(環七の姥ヶ橋交差点)から北区の低地を流れ、水路はいくつかに分かれて農地を潤し、隅田川へと注ぐ人工的な川、用水路のことで、根村用水とも中用水、北耕地川とも呼ばれた。

地図2枚目の赤丸部分に游鯉園の坂の案内板が設置されている。
案内板から引用ーーーーーーーーーーーーーー
十条仲原の台地から稲付川(現在は暗渠 あんきょ)に下る坂です。大正時代から戦前まで、坂下の川下にあった川魚料亭が遊鯉園(ゆうりえん)で、この坂の名前は、その料亭の名に因んで付けられた俗称です。明治の頃、坂下に水車小屋があり、旧稲付村(ほぼ、現在の赤羽西、西が丘、赤羽南にあたります)の農家がよく利用していました。
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戦前の游鯉園は政財界の要人が集う場として有名だったそうだ。
検索しても游鯉園の写真は出てこないのが残念。
たいそう立派な建物と庭だったのだろう。

稲付川とは.....過去記事 『稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)

地図2枚目の青矢印方向から、灰色四角部分を撮ったのが一番下のモノクロ写真で、游鯉園橋という。暗渠になった今、この橋は現存せず。

※ 稲付川用水の橋 上流より姥ヶ橋・游鯉園橋・美登利橋・榧の木橋・文明橋となっている。
<北区の橋 北区立郷土資料館シリーズVより引用>

【関連記事】
■稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
■姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水(稲付川や中用水、北耕地川とも言われる)
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■北区十条仲原 稲付川に下る游鯉園の坂
■稲付川(根村用水・中用水・北耕地川) 水車の坂
■稲付川(根村用水・中用水・北耕地川)が流れる深い谷底
■王子 上郷用水(石神井用水) 三本杉橋の親柱
■十条板橋道と王子稲荷道の追分に置かれた(仮称)稲付の関所跡と稲付川に架かる赤羽根火薬道の橋跡
■徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 松平定信奉納の扁額と根村用水
■板橋区大和町 日曜寺に架かる根村用水の橋(親柱・欄干)と平尾町内中の石柱(平尾宿)

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