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2021 8/25 『北区赤羽西5 大塚古墳 周辺の古墳(天王塚古墳、稲付台古墳群など) 』

地図の黒丸部分にかつて大塚古墳があったという。

北区の歴史東京ふる里文庫22より引用ーーー
・・・三世紀の終わりごろから、古墳といわれる族長の墓が各地にさかんに築造されるようになった。
北区では早い時期から開発が行なわれていたので、今日はっきりとした古墳を見ることができない。
もっとも大きく有力な支配者としての豪族の存在を物語る古墳が区内の赤羽台にあった。
旧陸軍軍用地内にあった「大塚古墳」がこれである。
残念ながらいまは見られないが、記録によれば、高さ一五尺(五メートル弱)、周囲は一七〇尺(約五二〇メートル)もある円墳であったという(『岩淵町郷土史』)。
※ <周囲は一七〇尺(約五二〇メートル)>は間違えで、正確には(約51.5メートル)となる。
明治初年の実測図では、一〇〇余坪といい、この大塚古墳をめぐり、十三坊墳という十三基の陪塚があったといわれる。
その陪塚のひとつ天王塚(地図の黒四角部分)は、陸軍被服本廠の敷地内にあったもので、ある夜二人が盗掘したところ、石棺と人骨、直刀が出土したといわれる。また、盗掘者の二家族は祟りにより病いとなったことから、石棺を台として魂霊社を祀ったという。
また王子には妙観塚、亀井塚、大道法師塚など七ヶ所の古墳群があって、七曜塚といったといい、現在は亀井塚のみが残っている。
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長い時を経て、この赤羽台地域は陸軍の各施設を建設するために、大きな敷地に分けられた。
戦後、白黒の航空写真を見ると1950年代まではこの大塚古墳の姿を確認できるが、1960年代以降は大規模団地や教育施設などに当てられ、航空写真には大塚古墳の姿は消えてしまったのを確認できる。

東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスでは古墳と認定されているが、一方では近年古墳ではないという調査結果もあると見かけたが、どこにあるのだろうか。

他にこの地域よりも少し南の稲荷台(御東山、城山)にも爺婆塚や東の静勝寺(稲付城跡)前古墳などいくつも古墳があったと言われている。
■板橋区 稲荷台遺跡
■赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域と稲付城跡にある静勝寺から宝幢院の道標
■板橋氏の板橋城はどこに築城されたのか お東山か御東山か<オヒガシヤマかオトウヤマか>この板橋城と見られる城郭跡は、稲荷台小学校(現 加賀小学校)から帝京大学、板橋本町、大和町の一部まで続いて、東は姥ヶ橋あたりまで続いていたという。少し話が反れるが古墳を利用した城はいくつもあるので、稲荷台に板橋城があった可能性もより高くなるのではないかと思う。
さらに、稲荷台の下を流れる石神井川を東に少し進むと■加賀藩下屋敷にあった山々 現存する大山(築山)が現存しているが、こちらも古墳という可能性はないのだろうか。また、さらに少し東にいくと■北区滝野川3 四本木稲荷神社/四本木稲荷古墳があり、こちらは古墳の上に神社が造営されている。

【関連記事】
■赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
■北区赤羽北 稲荷の坂と赤羽台古墳群(赤羽台4丁目)
■北区王子 飛鳥山1号墳
■北区滝野川3 四本木稲荷神社/四本木稲荷古墳
■北区滝野川3 四本木稲荷神社/四本木稲荷古墳 火薬製造の圧輪を用いた<忠魂碑>と圧磨機圧輪記念碑
■十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線
■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更)と補助83号線
■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更) その後7月・10月と“おふじ道”
■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀の主<ヌシ>の大蛇がまつり込まれている庚申さま(<庚申塔>神谷橋庚申通り商店会) 古墳 観音塚
■駒込富士神社と古墳群

■赤羽自然観察公園の湧水(陸上自衛隊十条駐屯地跡)
■北区赤羽西 かなくさ坂と湧水 隣接する赤羽自然公園の湧水(陸上自衛隊十条駐屯地跡)

■東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
■千川上水から東京第二陸軍造兵廠板橋製造所へ取水した分水口と水路跡
■東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
■東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
■東京第二陸軍造兵廠の石碑
■東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
■東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋<バラック跡>)のトンネルの湧水
■東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の憲兵詰所
■十条板橋道と王子稲荷道の追分に置かれた(仮称)稲付の関所跡と稲付川に架かる赤羽根火薬庫道の橋跡
■国指定史跡 東京第二陸軍板橋火薬製造所跡
■東京第二陸軍造兵廠 境界壁(支柱)
■東京第二陸軍造兵廠 稲付射場跡 梅木小学校にある陸軍用地の標柱(石標)
■東京第一・第二陸軍造兵廠 陸軍兵器補給廠へつながる赤羽根火薬庫道にある陸軍用地の標柱(石標)
■東京第二陸軍造幣廠(板橋火薬製造所)と陸軍兵器補給廠を結ぶ軍用トロッコが環七(富士見通り)をくぐっていたトンネルの遺構
■北区滝野川3 四本木稲荷神社/四本木稲荷古墳
■北区滝野川3 四本木稲荷神社/四本木稲荷古墳 火薬製造の圧輪を用いた<忠魂碑>と圧磨機圧輪記念碑

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2021 8/18 『旧中山道 平尾宿(板橋宿<上宿・中宿・平尾宿>)創業107年の銭湯 花の湯』

中山道板橋宿跡繪圖(大正初期より昭和の初め頃までの町並の様子 飛田啓之介氏筆、郷土資料館提供)の青丸部分に花の湯が描かれている。
写真は2017年3月と7月撮影。
旧中山道沿いでも象徴的な存在で、他地域からも入浴者が訪れるほど評判の高い老舗であったが、設備の老朽化と店主の高齢化で廃業となった。
跡地にはご多分に漏れず集合住宅が建設された。(デベロッパーはいわずもがなの某有名企業)
廃業の知らせを聞いた人々が多く訪れ、入浴したり威風堂々たる姿をカメラにおさめていた。
創業は1910(明治43)年で、1967(昭和42)年に建替えられたという。
これよりも前に、石神井川に架かる板橋のそばにあった銭湯も廃業した。
周辺にはまだいくつか銭湯は残っているが、ひとつまたひとつと姿を消していっている。

絵図を見ると、いくつも妓楼が残っているのがわかる。

花の湯の横の道を入って行くと平尾宿の脇本陣豊田家も描かれているが、現在はこちらも集合住宅が建てられている。
旧道、街道のこれからの姿は集合住宅にとって変わられ、未来の人々にとっては集合住宅が街道の面影となることだろう。

※赤丸部分がかつてここにあった板橋警察署で、平尾という名称は現在はほぼ姿を消したが、赤丸部分の向い、旧中山道と新中山道(国道17号)の交差点にある交番が現在も平尾の名を残している。

【関連記事】
■板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
■近藤勇と新選組隊士供養塔 平尾一里塚(板橋一里塚)跡と千川上水跡を越えたあたり
■北区滝野川・JR板橋駅前 新選組隊長 近藤勇が葬られた無縁塚(無縁塔)
■北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)

■旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 左甚五郎作の龍と加賀藩下屋敷の裏御門だった山門
■旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺の寛文の庚申塔 加賀藩前田家下屋敷の裏御門にあり移設された山門 平尾一里塚

■加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚(平尾一里塚)跡
■中山道 平尾一里塚(板橋一里塚) 一里塚まんじゅうと史跡
■北区滝野川 重吉稲荷神社と平尾一里塚の東側の小道にあった廻国塔

■板橋遊郭 新藤楼
■旧中山道 板橋宿(仲宿 )伊勢孫跡 レンガの塀と車輪除けの石

■中山道と川越街道起点の平尾追分 高田道と川越街道の四ツ又

■千川上水から東京第二陸軍造兵廠板橋製造所へ取水した分水口と水路跡

■旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。