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2023 9/29 『F40』

カーグラフィックTVだっただろうか、初めてF40を目にした時に「これまたすごいフェラーリだな」と思った。みんなそうだっただろうか??
その当時、ファッション雑誌以外に二輪や四輪の雑誌が愛読書のような存在で、買えもしないのに中古車販売雑誌もよく読んでいたし、必ず手元に(部屋に)一冊は常備していたと思う。勉強とスケートボードの合間に車のプラモもまぁよく作った。

そんなスーパーカーは私ももれなく好きで、このF40のプラモも作ったし、西ドイツ製の精巧なプラスティックのミニカー(Herpa製 1/87)も持っていた。
だれだったか失念したが、著名なだれかさんが「これは死ぬと思ってF40は手放した」とTVで言っていた。
この映像は車好きな方には有名なようですが、少し前に初めてみたけど、180km/h以降の加速がえぐいほどでとてもびっくりした。F40はとてもすごい車だとわかるが、安全を無視した他者のことを全く考えていない運転不適格な人ですね。運転はしてはいけない人物。

私が学生の頃はルーレット族が全盛で、夜にバイクで首都高を走ることは避けて、というか避けざるを得ない状況だった。違うスタイルだけど、初日の出暴走とかも酷いものだった。
当時流行っていたゲンバラやケーニッヒなどの過度なチューンドカーも結構好きだったなぁ。

【関連記事】

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2023 9/19 『池袋一丁目(旧 西巣鴨町池袋) 平和通り商店街<古道 高田・雑司谷道>沿いにある池袋の森(島田牧場跡地) ユリノキとトンボ池(湧水)/谷端川 島田牧場支流・島田屋敷支流』

地図及び池袋絵図の緑色丸部分、平和通り商店街の中に<池袋の森>という公園がある。
公園入口の間口が僅かなので気づかない人が多いだろう。敷地の奥まったところに建つマンションのアプローチにも見えるが、個人の邸宅の名残りだろう。一歩中に立ち入ると、コンクリート建築群に囲まれた中に自然が残されているのでそのギャップに驚くと思う。
池袋の中で自然を感じられるとても貴重な場所のひとつ。
●この平和通り商店街は古道で高田道(雑司谷道)という。※上から2枚目の地図<「池袋村絵図」読みおこし文>参照。
池袋村絵図(緑色丸部分)より、敷地内の湧水は谷端川の雲雀ヶ谷支流(名も無き小川)へ合流し、本流の谷端川へ注いでいる(黄色四角部分の少し右)のが分かる。合流部分付近にはかつてお多福弁天沼があり、現在はその付近の下板橋通り沿いのビルの一階にお多福弁天様が祀られている。

池袋平和通り商店街の歴史(商店街のウェブサイトから引用)ーーーーー 江戸時代、このあたりが池袋村と呼ばれていた頃、新宿から板橋宿へ向かう街道がありました。古地図を確認すると、それが今の池袋平和通り商店街だと分かります。当時、道の四つ辻には、行き交う人の安全や街道で行き倒れた方の供養のために石地蔵が置かれていました(現在は重林寺に移設)。また、池袋の森に湧いていた湧水に石橋がかかっていました。このような歴史地理的由来も商店街として発信していきます。

豊島区立「池袋の森」は、池袋駅の北約500mに位置し、池袋平和通り商店街の一角にあります。1997年(平成9年)に開園した豊島区立の区民の森です。東京大学農学部名誉教授だった、林政学者・島田錦蔵氏の屋敷跡を区が買い取って、公園にした場所です。

<池袋の森とは> 豊島区立「池袋の森」は、池袋駅の北約500mに位置し、池袋平和通り商店街の一角にあります。1997年(平成9年)に開園した豊島区立の区民の森です。東京大学農学部の名誉教授だった、日本を代表する林政学者・島田錦蔵氏の屋敷跡を区が買い取って、公園にした場所です。園内にあるほとんどの樹木は島田博士が研究用に育てていた当時のもので、特に園内中央の大きなユリノキは、日本にこの樹木が定着する前に研究のために外国から導入したものと言われています。1952年(昭和25年)に4本植えられたそうですが、現在残っているのはそのうちの1本です。 近隣の保育園児の散歩コースとして、また昆虫・カエルの観察に来られる方にも、よく利用されています。
市街地にある貴重な自然環境資源として、生態系を保全しつつ、地域の皆様と楽しい空間を育んでいけるよう、商店街としても様々な企画を実施し、情報発信していきます。 ーーーーーーーーーー

島田牧場の跡地(案内板から引用)ーーーーー
島田牧場は、1907(明治40)年に島田善吉氏が創業してから、1928(昭和3)年まで21年間この地で経営をしていた牧場です、その後は島田氏が三代居住していましたが、林政学者島田錦蔵氏の屋敷跡を豊島区が買い取り、公園として整備し、1997(平成9)年に「池袋の森」として開園しました。
公園中央部にある池は、かつての牧場で使用されていた井戸の水です。良質な地下水が豊富で、だくさんの水を必要とする牧場経営に適していたと言われています。 当時の牧場規模は、乳牛18頭(牝18頭・牡1頭)、牛舎1棟(約116u)、柵に囲まれた運動場(約647u)がありました。牧夫2人が乳牛を管理し、年間約1620kgの牛乳を搾乳し、東京中心部の牛乳屋に販売(出荷)していたということです。 ここ「池袋の森」はかつて池袋には牧場があったという跡地をも今に伝えています。
ミルク1万年の会 ※本掲載文は、「ミルク一万年の会」によるものです。
ーーーーー
「かつての池袋」の姿を感じることができる貴重な施設なのでぜひ。

商店街には古くからの交番もあるが、もうそんなことは関係ないように事件が頻繁に起きている地域でもある。
犯罪者は去って欲しいですね。平和でありますように。

【関連記事】
■雑司が谷 未来遺産 雑司が谷・高田と池袋本町と板橋宿をむすぶ高田道
■池袋 四面塔尊 辻斬残骸 無縁仏の供養 池袋村 高田道<四ツ辻付近の追はぎや辻斬> 【2023年3月10日 加筆:<「何か◯◯したのですか?」と、奇妙なことを尋ねる日傘の女性>】
■中山道と川越街道起点の平尾追分 高田道と川越街道の四ツ又
■古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
■板橋区板橋2丁目高田道沿い 子易神社<胸突地蔵 別名身代わり地蔵> <狐山>と<高稲荷山>に住む狐と金井窪のきつね色の水
■板橋区板橋2丁目・大山金井町 高田道 金井窪の峠(高稲荷山の切通し)
■谷端川 高田道沿い<子易神社境内 田楽橋の橋桁(板橋区板橋2丁目)>
■昭和29年の雑司が谷隧道(東京都豊島区西池袋一丁目 現 ウイ・ロード) 古道<高田・雑司ヶ谷道>

■谷端川 雲雀ヶ谷支流(名も無き小川)とお多福弁天沼(お多福弁天様・橋かけ弁天様)
■谷端川のお多福弁天(板橋区板橋1丁目)
■宮仲(巣鴨村) 谷端川 上池袋支流(瓢箪池支流) 滝と呼ばれた洗い場跡 瓢箪池跡(山玉(やまたま)の池)
■谷端川と池袋の名の由来 古道 高田道

■池袋の川 弦巻川
■豊島区の100年 弦巻川 丸池跡
■豊島区の湧き水と池 <弦巻川の水源である丸池跡の元池袋公園の思い出>

■池袋の川 水窪川 暗渠をぬけて
■今宮神社駐車場の湧水 (水窪川 小日向台の崖線)
■水窪川の擁壁 小日向台の崖線から滲み出す水 八幡坂 江戸切絵図より
■水窪川が削った深い谷と階段 旧大塚坂下町(大塚五丁目)

■石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所
■板橋区栄町 板橋競馬場跡 石神井川沿い<愛光舎牧場> 現 牛乳販売店<愛光舎>

■池袋御嶽神社 ふくろうの像(梟の像 親子)
■池袋駅 東口五叉路(グリーン大通り)<キリン堂薬局>

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2023 9/10 『昭和50年代初頭の頃のハッピーロード大山商店街・遊座大山商店街(板橋区民館通り商店街〜大山サンロード)と町並み(大山町・大山西町) ライフアップ 大丸百貨店・大山東映(映画館)・ヨシオカヤ(おもちゃ屋)』

上から3枚目の地図右の赤丸部分、マルハン(パチンコ屋)と読み取られる場所にかつて大丸百貨店とイトーヨーカドー(上から2枚目の黄色部分:1987年以前の地図)があった。関連記事でも触れているが、消防の歴史に残るほどの大火災があり、イトーヨーカドー撤退後には家電量販店(ラオックスだっただろうか?失念)になり、いつしかパチンコ屋になって今にいたる。
パチンコ屋の目の前にはかつて千川上水(暗渠となった)が流れていて、旧川越街道(ハッピーロード)には<大山橋>が架けられていたという。橋の袂には馬蹄を作る鍛冶屋が一軒あり、手入れを受ける馬が常につながれていたという。

その大丸百貨店の記憶はあまりないが、母は大丸が好きでちょくちょく行っていたと思う。百貨店という名のところはハレの場ですからね。写真1枚目の不織布は何か少しばかり高いような衣服?布団的なものを包んでいたように思う。実家の荷物を整理していたら出てきたので、大切にしていたのだろう。いいですね、未来永劫ライフ↑アップ....懸命に生きる母と私たち家族に少しの贅沢をみさせてくれる百貨店、夢と希望があふれていた。

昭和50年代末の頃には、家族3人で新幹線にも乗れるようになり、九州の大分(宇佐市・豊後高田市)にも帰郷することが出来て、帰りには東京駅の大丸で、おもしろいハンバーグ食べようか!...と母が言っていたおいしいデパ地下の惣菜を買って帰宅して、嬉しそうに食べている母の笑顔もよく憶えている。

上から写真2枚目、これはアーケードが出来てすぐの頃だったように思う。同じ施設で生活をしていた親友のお母さんが撮ってくれたようにうっすら記憶している。(これも嬉しそうにしている)左に写っているステンレスの支柱の間隔と送水口から推測すると、上から3枚目の地図の左赤丸部分のような気がするが不明。

私と姉がいなければ母は生きていなかったように今思う。
日々一所懸命に生きるその姿に、凄いなと尊敬の念を抱いていたのを鮮明に憶えている。
母には感謝しかありません。
そして大山の近隣住民の方々、施設関係者の皆様が私たち家族に手を差し出し支えてくださったことに心から感謝しています。
掲載することはプライバシーの問題で出来ないが、母がとっておいた約50年前の施設などの写真は今では貴重なものだと思う。

●関連記事56 『2013 2/27 地域シリーズ』より引用ーーーーー

・・・昭和50年代の子供の頃に住んでいた町、
じっと見てはいけない、家族はみなそっぽを向いて通らざるを得なかった建物があった...
新藤楼の手前、中山道と分かれて川越街道になる商店街(遊座大山商店街)に
どーんとドでかく、おっ◯いポロリしてような記憶があるが...
ポルノ映画館が二軒ほどあったと記憶しています。
お母ちゃんには見るなと言われて手を引かれていましたが、目だけ上げてガン見していました。
...土曜の夜の番組、エロ満載のウイークエンダーの再現フィルムは薄目をあけてよ〜くみていました、みな一緒ですかね?
男の子は元気があるほうがいい。・・・
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●関連記事83 『2015 6/17 『旧川越街道 ハッピーロード大山商店街 小松屋横町道に佇む“命”の碑』』より引用ーーーーー

・・・35年前、大山町に数年間住んでいたことがあって、先日懐かしさもあってこの地域をあちこち見て、歴史を調べてみた。
かつて住んでいた家2つはもうどちらも今はなくなっている。
川越街道沿いにある山中交番(現 大山交番)の横をとおる山中通り睦会にある金魚屋さんは今でも健在で、よく買ってもらっていた。
ハッピーロード大山商店街、かつてはチンドン屋がよく練り歩いていて、孔雀の羽やサトウキビもよく売りにきていて、初めて食べた時になんて甘い木なんだろうかと不思議だった。
イトーヨーカドーの火災は夜中に凄まじいほどのサイレンではっきり憶えている。可燃物が多く消火が困難で長い間燃えて全焼し、商店街はいつまでも焦げた臭いが漂っていた。・・・
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●関連記事133 『2019 8/15 『板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備』』より引用ーーーーー

・・・奥の黄色い建物は、かつてはヨシオカヤというおもちゃ屋で、近隣住民のちびっ子にはとても大切なおもちゃ屋だったが、もう営業は終えている。約40年も前だが、その当時のヨシオカヤの職員さんの顔は今でもはっきりと思いだせるし、風邪から復活した時にや誕生日に買ってもらったおもちゃも憶えている。ウルトラマンや怪獣が凸版(エンボス)のプラスティックに彫られて、バランのような物をでこすると、凸版印刷のような絵が出来上がる。プラレールの小さい版のようなアブト式ジェットコースタのおもちゃは、鉛直や天井など縦横無尽に走ることが出来て、外れない溝が付いた真ん中のレールが途切れた垂直降下レールに進むと天井から床へと一気に高速で下りる。あとは初期のガンプラやゲームウオッチ、風呂で遊べる戦艦や潜水艦のプラモデル、ミクロマンや何かの超合金のヒーロー、ヤッターマンのヤッターワンのおもちゃ(中から色々出てくる)、ロボダッチのプラモデル....切りがないですね。ヨシオカヤの屋外横にあった(階段下だったかな)アーケードゲームコーナーのディグダグは半端無くやっていたので、自爆しないと一向に終わらないレベルにまで腕を上げ、他のちびっ子に迷惑になるのでやめてしまった。
小学校に上がる前の幼い頃は、このゲームコーナー があったこの大山道(小松屋横町道)をもうちょい進んだ道沿いに住んでいた。
かつては、ハッピーロード商店街によくサトウキビ屋やチンドン屋、孔雀の羽屋などがよく来ていて、サトウキビをむしゃむしゃ食べるのが楽しみのひとつでもあった。その当時、ハッピーロードの真ん中(今のパチンコ屋あたり)にイトーヨーカ堂があったのだが、歴史に残る大火災で全焼してしまい、しばらくの間、商店街には焼けこげた臭いが漂い、通る人々は皆鼻をつまんで抑えていた。傷痍軍人のような人が駅前にたまにいたような記憶がうっすらある。
商店街をたまに通るシスターの姿をしきりに目で追っていて、何だかあたたかいような寂しいような気持ちになっていたのは、後に母から聞いて分かったことだが、1歳くらいの頃に一時期シスターの所(江古田だっただろうか...カトリック教会)に自分だけ預けられて育てられていたと。その時に旅立ったのが年子の弟で、家族が生きていけるために短い生涯を終えた。その後、小学三年生くらいの時に、一番下の板橋カトリック教会の2階で開かれていた公文に通っていて、教会から流れる教会音楽や教会の雰囲気がとても懐かしく感じたり、一方なぜか悲しい思いや楽しい感じもして、複雑な感情を抱いたが、公文と教会に行くのが楽しみで仕方がなかったのも、前記のとおり、母から預けていたことを知って合点したのを今もよく憶えている。
大山駅を渡った遊座大山商店街には一般的な映画館やじっと見てはいけない、家族は皆そっぽを向いて通らざるを得なかった建物があった...どーんとドでかく、おっ◯いポロリしてような記憶があるが...ポルノ映画館が二軒ほどあったと記憶している。
お母ちゃんには見るなと言われて手を引かれていたが、目だけ上げてガン見していた。そんなポルノ映画館もあり、とても賑やかだった。
...土曜の夜の番組、エロ満載のウイークエンダーの再現フィルムは薄目をあけてよ〜くみていた。皆一緒ですかね?男の子は元気があるほうがいい。
あと、姉とよく買いに行ったサーティーワンではジャモカアモンドファッジのあまりのおいしさにひっくり返った。
仕事で忙しい母は、平日の夕食を作ることがあまり出来なかったので、家の近くの<※そば屋さんの店屋物>の鍋焼きうどんか、大山西銀座商店街と川越街道の交差点のあたり田崎病院の向かいあたりにあった吉野家の牛丼、このふたつがルーティーンの夕食だった。こんなに牛を食べていると嫌いになるもので、牛丼はあたまを除けてつゆがかかった白飯と玉ねぎだけを食べていた。夕食後はたまにハッピーロードにある本屋へ立ち読みに行っていて、<魔太郎がくる>、<シャドウ(ブラック)商会変奇郎>などの漫画を読むのが楽しかった。休みの前の日には、板橋二中の向かいにあった<まるみ堂>で画用紙や大きな白い紙を買ってもらい、夜な夜な絵を描いたり、工作物を作って遊んでいた。

それから時を経て、ビーバップハイスクールが流行り出した頃には、確か、ミノリヤ(みのるや?)といっただろうか、ボンタン屋(変形学生服というやんちゃな子が着ていた制服)もあったりして、高島平へ引っ越した自分は遠方からわざわざこのお店に、神風特攻と印刷された裏ボタンを買いに行ったことがあるが、速攻で生活指導の先生に没収された....色のついたTシャツを学ランの下のワイシャツの下に着ることもダメだったり、靴下は白でデッキシューズも白という、かなり厳しい時代だった。校内治安が改善した中三の頃はコンバースで通っていた。
少し上の大山の先輩は、原付で中学校に登校し、校内を走り回っていたりしてたから、そりゃぁ地域が違えど時代が時代、引っ越した先の西台の下級生の指導にはきつくなるわなと。
・・・大山のあちこちの商店街での母と姉との買い物がとても楽しかったし、他者の家と比べると厳しい生活だったかもしれないが、何不自由ない生活だと思わせてくれた母には、ありがとうの気持ちしかなかった。
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地図一番上のピンク四角部分、まだこの当時(1987年前後)には商店街に映画館(大山東映)が残っていたんですね。
記憶にあるところで大山の近くだと、十年くらい前だっただろうか、王子駅前にも映画館が生き残っていたような気がする。
かつては都心の街ではない近所の商店街に映画館があちこちにあったそうですね。

<※そば屋さんの店屋物>部分、この1987年前後の地図に稲迺家と記載されているので、晩ご飯でよく配達してくれていたおそば屋さんは稲迺家<いねのや>大山店(大山西町店)だろうか....飲食店は入れ替わりが激しかったりするところも多いので不明だが。
配達してくれていたお兄さんの顔や姿は今でもよく憶えている。母が出勤前か職場の仕事の状況で、その日は遅くなるという時に注文してくれていたのだろう。晩に何も言わずに自動で店屋物が家に届くシステムになっていた。

どこの何々さんやお店、会社等が記載されている昔の地図を見ると懐かしい思い出が蘇ってくると共に、不確かだったことがはっきりとよく分かるのも嬉しい。

下から4枚目の昔の商店街の写真、右に小泉ストアと屋号が見える。ここは現在、HARO PLAZA部分<イイダストア>入口で向いは三菱UFJ銀行。
昔からある商店もいくつもあるが、撤退して大手資本のお店などに入れ替わっているが、それもやむなしというところだろうか。ハッピーロード大山商店街も遊座大山商店街も再開発で今後さらに大きく変ってくる。

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2023 9/2 『他者にとっては夜中のスーパームーン 酷い暑さだった8月のランニングと日々の生活』

天体ショウ的なイベントは好きなので、早朝の空を見上げた。
月明かりがベランダの床に手すりの影を落し、室内よりも屋外の方が涼しく感じてとても心地が良い。しかし、窓を明けっ放しにしてエアコンを切るとたちまち家族が起きてくるだろう。仕方がないので外からそっと窓を締めた。
まぁ上手くは撮れないのはいつものことで、その原因はカメラの性能でしかないなぁとカメラのせいだと思いながらいくつもシャッターをきった。

今こうして写真のデータをみると、2:58を刻んでいた。

朝3時くらいに具沢山のお味噌汁と出汁巻き卵やソーセージ、浅漬けや刻んだ野菜をゆっくりと作って盛りつけて早朝飯の出来上がり。お膳に手をあわせるのはだいたい3時半か4時くらい。
撮り溜めしているドキュメンタリーやバラエティなど早送りを混ぜながら次々と見ていくと、カーテン越しに朝ぼらけ。
暗くて静かな居室でひとりで過す時間が自分にとって大切な「ひととき」だ....ただ、ショートスリープ故に少し早めに床につくと『今日起きちゃう』こともあるのが難だ。

さて、30代の頃は4-5時の早起きが普段の生活だったので、その頃のような楽な身体のコンディションや生活になるべく戻したいと、あまりビールも飲まずに早起き生活を続けて2ヶ月が経った。
とにかく身体の調子が良いので、食欲もあるし、こんなにも暑いのに日影を使ってよく走ることもできている。NIKEアプリで124km、ガーミン(ランニングウオッチ)で20kmくらいとのことなので、140km/月を走ることができた。こんなことは7年ぶりくらいだろうか。
涼しくなってきたら15km、20kmと少し長い距離を走ってみよう。飽きそうだけど。。

何でもないこういう日々を過すのが10年ぶりくらいなので、日々リラックスできていることがとても幸せ。大げさか、いや、ほんとそう感じるんです。

一番下、合い挽きを400g使ったドライカレー。ベーシックなスパイスをあれこれ使って、家で食べるには十分な味ですぐに胃におさまった。ドライカレーを簡単に作ると30分くらいで出来るのでいいですね。

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