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2021 1/27 『水窪川の擁壁 小日向台の崖線から滲み出す水 八幡坂 江戸切絵図より』

一番上の地図の黒丸部分に八幡坂がある。
江戸切絵図の緑色で囲んだ部分に久世大和守屋敷がある。

案内板から引用ーーーーーーーーーーー
『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍らに下る坂をいふ。
安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。
明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。
坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。
文京区教育委員会 平成5年3月
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写真上から1−2枚目、4−8年ほど前に撮ったもの。
急な階段がついた坂道だと分かる。上っていくと小日向台になり、八幡坂下の前(写っていない手前)にはかつて水窪川が流れていた。

水窪川は東急ハンズ近くにある“美久仁小路”という飲食店街(飲屋街/かつての闇市の名残)を水源として、神田川へ注いでいた。
現在でも神田川には水窪川の排水口が開いている。(写真一番下)

写真5−9枚目が、神田川へ合流する手前の水窪川の暗渠道と擁壁で、今でも小日向台から水が滲み出しているのが分かる。

この先今宮神社の擁壁からも、今でもトクトクと水が湧き出している。
暗渠になる前の水窪川の前面には建物が無かったので、日影で寂しい雰囲気は無かったことだろうが、今は何となく湿っぽくどこか寂しげな感じが写真でも伝わるだろうか。
水窪川の中流域、坂下通りとよばれている大塚六丁目から不忍通りの地域は、深い谷になって高低差がある場所もあり、下流域である掲載した写真のとおり、かつて水窪川の流れが強かったことがよくわかる。

※一番下の写真は神田川の合流口だが、現在はこちらの口ではなく、音羽通りをはさんで西側の口に付け替えられている。
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今から50年ほど前の本から。
『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用ーーー

八幡坂(はちまんざか)
小日向台地の西端。音羽一丁目六番地から今宮八幡神社の西脇を北上するコンクリートの急坂で、音羽一丁目と小日向二丁目の境界にあたる。
この坂の上は通称久世山とよぶ小日向の高台で、江戸時代は下総国関宿の藩主久世氏の広大な下屋敷があったので久世山の名が起った。
「新撰東京名所図会」には「八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社即ち旧田中八幡宮の傍らに下る坂をいふ。安政四年の切絵図にも八幡坂とあり」と記している。
田中八幡が氷川社と合併されて明治二年に小日向神社となったことは前述したが、それより以前同社は久世山の台地にあり、その社地が明暦元年に久世隠岐守の抱え屋敷になったので音羽に移転したのだが、その後、明治維新の神仏分離令によって、当時護国寺境内にあった今宮神社をここに移して、田中八幡社は氷川社と合祭されて移ったが、八幡坂の坂名だけがそのまま残されている。
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文京区のウェブサイトから引用
文京区音羽1丁目4番(坂上部は25番)と6番の間にある坂

長さ:約90m
傾斜:急
形態:途中で大きく折れ曲がる、階段のついた坂道
音羽1丁目の住宅街を、坂下は東北東に、途中で大きく左折して、坂上は北に向かって上る急な坂です。
坂下の南方には今宮神社が建っています。少し先の音羽通り沿いは、背の高いマンションが立ち並んぶエリアです。
坂を上り、さらに直進すると、バラの庭園でも知られる美しいレンガ造りの洋館「鳩山会館」の裏手に出ます。
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この八幡坂の南に鷺坂があり、こちらも有名な坂道として知られている。
また、小日向台には切支丹坂や茗荷坂など有名な坂道がいくつもある。

音羽、小日向地域は見所がたくさんある素敵なところですね。
【関連記事】
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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2021 1/23 『板橋区弥生町 上板橋宿 豊敬稲荷神社の玉垣に刻まれた瀬戸川牧場』

パッピーロード大山商店街の少し先、旧川越街道は上板橋宿だった。
宿泊施設などは無く、小さめの宿場だったという。
その仲宿あたりの旧川越街道沿いに、豊敬稲荷神社があり、玉垣には瀬戸川牧場と刻まれている。
地図の黒で囲んだ部分にかって瀬戸川牧場があり、地図の赤く囲んだ部分、弥生小学校がつくられる前、この土地にも吉川牧場があったという。
石神井川を上流方面に進むと、積田牧場大谷口搾乳所(積田牧場)があった。
さらに上流を進むと、城北公園あたりにも牧場があった。
石神井川がすぐ近くにあるので牧場が集ったのだろう。
詳しくは調べていないが、その他にもいくつもあったという。

池袋にもかつて牧場がいくつかあったが、これも谷端川や弦巻川が流れていたので、集ったのだろうと思う。
小学生がレポートをまとめている。
池袋には牛がいた 〜この町にあった牧場〜
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【関連記事】
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2021 1/19 『中山道 平尾一里塚(板橋一里塚) 一里塚まんじゅうと史跡』

<北区の古い道とみちしるべ>より引用ーーーーーー
文化二年の「木曽路名所図会」には、「今、俗に中山道ともいう」と記してあるが、江戸時代の道中記の中には木曽路とのみ記しているものさえある。
この中山道の文字については正徳六年(一七一六)に「山」の字と定めているが、それまでは「山」と、「仙」が混用されていた。この辺りの国道十七号線も、西巣鴨交叉点以北は「中山道」(以南は白山通り)と呼ばれている。
中山道の一里塚は駒込追分と呼ばれた現在の東大農学部前の分岐点にその一里目のものがある。二里目が平尾の一里塚で、ここが板橋宿の入口となっていて、「一里塚まんじゅう」を売る茶店などもあって、旅人がしばしの疲れを休めていた。
ここから始まる板橋宿は、平尾・仲・上の三宿に分かれ、平尾宿の南側(板橋区板橋一丁目)は滝野川村であった。
中山道北側の複雑な北・板橋区界は、当時広大な地域を占めていた、前田家の装束屋敷(参勤交替の際旅装を着替えた)と呼ばれた下屋敷の境界によるものである。
この一里塚の所在を明記している『中山道分間延絵図』や、伊能忠敬の「江戸実測図」は、何れも小地域の図や名称を省略しているが、「分間延絵図」は板橋宿入口手前の街道筋に家三軒を描き、「伊能図」には「三軒家」と註記してある。
これはこの地に有名な三軒を中心にした種屋があり、中山道を参勤交替で通った北国などの大名三十数家の内に、領内の農業振興のため滝野川村名産の胡蘿蔔(にんじん)や牛蒡(ごぼう)、練馬大根などの種を求めていったものもあったためであろう。
宿場には「伝馬」と呼ぶ制度があり、一定の人馬が常に用意されていた(東海道が各50で他は各25)。しかしこの中山道は前途の諸大名の通行路でもあり、京から江戸の将軍家へ嫁入りする姫達もここを通ったので、そのような際には近隣の村々から応援の人馬を集めた、この村々を「定助郷(じょうすけごう)」と呼び、それでも間に合わない場合、更に割り当てられる村々を「加助郷(かすけごう)」と呼んでいた。
両助郷には北区内では、板橋宿には神谷・堀之内・豊島・上中里・西ヶ原・滝野川の各村が記録(徳丸本村安井家文書)されているが、年によっては滝野川村はその支村の谷津村と併記されている。(日光御成道の岩淵宿の両助郷は、赤羽・稲付・下・袋・神谷村等)
この伝馬や助郷の制度及び人馬の賃金等は道中奉行の管轄となっていた。
渋沢栄一氏は自伝「雨夜譚(はなし)」の中で、中山道深谷宿などを例に、当初は農民救済の目的を持っていたこの「助郷制」も後世は物価が上がり、固定化された賃金がこれに伴なわず、幕末の頃は、このために苦しむ村々が多くなったと語っている。
都電荒川線庚申塚電停近くの延命地蔵境内には、この中山道を通る旅人安全祈願石仏が見られるが、幕末期には東山道追討軍の進撃路ともなり、新選組
隊長近藤勇は平尾一里塚付近で斬首され、後に同隊の生き残りの永倉新八はこの地に近藤勇と土方歳三の墓碑を建て、その側面に当時までに死亡した新選組隊士の全氏名を彫りその名を後世に伝えている。
この中山道は、江戸の一時期には板橋辺からこの道に平行して来た千川上水が現在の千川上水公園から南方江戸の町へ木樋によって地下を流されていたこともあった。
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地図一番上、これが現在のこの地域の地図で、赤丸部分に平尾一里塚(板一里塚)があったという。
上から2枚目、分間延絵図の赤丸部分に一里塚の文字が見える。
上から3枚目、復元江戸情報地図の赤丸部分が平尾一里塚で、2−3枚を見比べてみると、すぐそばを流れる千川上水が大きく湾曲した経路あたり(黄色丸部分)に一里塚があったようにも見て取れる。
ただ、千川上水は流れを変える工事をいくつもしたことが分かっているので、実際には赤丸部分にあったというのが通説どおりだろう。
白黒写真とその下の地図は<加賀藩江戸下屋敷 奥山正>から引用させていただいたものからも、一里塚の位置は裏御門通のすぐわきに描かれてあり、写真下から3枚目の飲食店(2021年1月現在)があるところが平尾一里塚跡になり、一番下の写真が飲食店の向かいにあった一里塚跡になる。
横断歩道の向うを撮った下から2枚目の写真、旧中山道すぐ隣りのこんもりと膨らんでいる場所にかつて千川上水が流れていて、この先(左方面、明治通り<鎌倉道>方向)は現在も大きく湾曲しており、これは汚水が上水に混じることを避けるために離したと言われている。

この辺りにかつてあった茶店で、一里塚まんじゅうを売っていたのだろう。旅人の休憩にはまんじゅうがつきものだろうから。
一里塚饅頭を食べてみたいところ。

上から4枚目、今昔マップ(1896〜1909年)には東・西三軒家の文字が見えるが、これが上記の有名な種屋、三軒から付けられて地名で、現在でも、旧中山道沿いには種を扱うお店や会社が点在している。

引用した文章に登場する遺跡・史跡や名所など関連記事を参考に。
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