2013 2/27
『地域シリーズ』
ペダル踏んで踏んで...
すぐそこは埼玉県との境、赤塚へ
地域シリーズ展。
板橋地域は豊島氏によって開発され、
豊島氏は太田道灌に滅ぼさたれものの、
士族板橋氏が北条氏の支配下において命脈を保ち、
江戸時代には旗本と板橋宿上宿の名主となった。
板橋には本当に板の橋が架けられておったそうで、そこから命名。
...来場者では最年少だったような気がします。
遺跡から近代まで、コンテンツぎっしりでとてもおもしろかった。
二枚目、
徳川家茂んとこに和宮が降嫁する際の列はなんと50km、
東海道筋を避けて中山道で...
旧中山道にある縁切り榎を大きく迂回し板橋宿に御泊まりに(休憩かな?)
図録より。
中山道は姫街道とも言われたらしいです。
...前のコラムでも少し触れましたが、
近世初期の板橋地域は鷹狩りの場でもあった。
なもんで、鷹匠も多く住んでいたとのこと。
目黒に鷹番という地域がありますが、由来は鷹狩り。
宿場町とし発展し、
旅籠には150人くらいいて、とても華やかだったようです。
その後は遊郭としても賑わい、
明治に作られた新藤楼という三階建ての立派な造りのがあった。
最盛期には30人の遊女がいたそうで、他の料理店などをあわせると十軒弱が
営業していたと。
今ではそのおもかげすらないところですが、
吉原と同規模のそれはそれは大きな遊郭だったようです。
その後は寮や病院などに転用されていって、
戦後も復活することなく終焉、
板橋には赤線がないのはその経緯があったからだと知りました。
昭和47年に解体、そして惜しむ声が多く、
区の郷土資料館に玄関が保存されています。
その当時のこの建物を知る方のブログを読んでいると、
近寄りがたい存在だったようで。
昭和50年代の子供の頃に住んでいた町、
じっと見てはいけない、家族はみなそっぽを向いて通らざるを得なかった建物があった...
新藤楼の手前、中山道と分かれて川越街道になる商店街(遊座大山商店街)に
どーんとドでかく、おっ◯いポロリしてような記憶があるが...
ポルノ映画館が二軒ほどあったと記憶しています。
お母ちゃんには見るなと言われて手を引かれていましたが、目だけ上げてガン見していました。
...土曜の夜の番組、エロ満載のウイークエンダーの再現フィルムは薄目をあけてよ〜くみていました、みな一緒ですかね?
男の子は元気があるほうがいい。
話がそれましたが...
無縁仏となった遊女のお墓、
手厚く供養されているお墓もあります。
幕末、
新選組、近藤勇が処刑されるまで幽閉されていた板橋宿平尾町脇本陣跡もすぐ近くにあります。
と、
巣鴨地蔵通りから板橋本町までの約5kmの旧中山道、
その中心である板橋〜仲宿、とても興味深いところです。
こんどは東海道筋、4大宿場町のひとつ品川宿を巡ってみよう。 |