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2004年3月〜
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2022 8/18 『肥後細川庭園と椿山荘の間 関口水門(大洗堰)の守護神<水神社> 細川家 永青文庫』

地図の紫丸部分、肥後細川庭園と椿山荘の間に水神社がある。
水神社の東隣りには胸突坂があり、坂の上には細川家の歴史資料や収集した品、文化財などを管理している永青文庫がある。

案内板から引用ーーーーーーーーーーー
水神社 目白台一丁目~九

祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇
創建の年代は明かでない。
『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。
わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水(もんと)が開いた。井頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神隣、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。
上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、。前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。

ー郷土をはぐくむ文化財ー
文京区教育委員会
昭和五十八年三月
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案内板から引用ーーーーーーーーーーー
永青文庫(目白台1−1−1)

この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。
永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年に設立された。
昭和47年に登録博物館となり一般にも展示公開されている。
ー郷土愛をはぐくむ文化財ー
文京区教育委員会 昭和62年3月
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写真は9年近く前のもの。
境内は少し寂しいが、静かで厳かな雰囲気だった。

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2022 8/14 『目白台の湧水を生かした回遊式泉水庭園<肥後細川庭園>と胸突坂(別名 水神坂)』

地図の青丸部分に肥後細川庭園がある。
東側には椿山荘、北側には田中(田中角栄)邸と、巨額の相続税の代わりとして物納した目白御殿の一部だった目白台運動公園がある。

庭園案内板から引用ーーーーーーーー
肥後熊本細川候下御殿の面影を残す池泉回遊式庭園

大名の下屋敷から細川家へ
この地は、江戸中期以来旗本の邸宅となりました。
江戸末期には、徳川三卿のひとつ清水家の下屋敷となり、のち一橋家の下屋敷に転じ、幕末に、肥後熊本54万石の藩主細川越中守の下屋敷、抱屋敷となりました。

公園の開設
第二次世界大戦後、数度にわたって所有者が変わり、その後、昭和36年(1961)9月、都立公園として開園した後に、昭和50年(1975)4月、文京区に移管されて現在に至っています。
松聲閣から庭園を見た景色は、目の前に広がる池、左手の斜面地の林、燈籠のようすなど明治期から変わらぬ風情を留めています。細川家に伝わる絵(下記)と比べると、この庭園の持つ歴史を味わうことができます。右地図の↑の位置でご覧ください。
庭園の特色
・地形の変化を巧みに利用して、台地を山として立体的眺望があります。
・池泉回遊式庭園で、遊歩道の一部は踏みわけ道のようになっています。
やり水形式(平安貴族の寝殿造りの細流)で台地の湧き水を池に取り入れています。
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下から4枚目は歌川広重<名所江戸百景 せき口上水端はせを庵椿やま>。
下から2−3枚は肥後細川庭園の東隣りにある<胸突坂>で永青文庫がある。文字どおり、胸を突くほどに急な坂道として名が知られている。この目白台を神田川沿いに西側へ行くと、有名な坂がいくつもある。

案内板から引用ーーーーーーーーーー
胸突坂(むなつき)
文京区関口2-11と目白台1-1の間

目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
ー郷土をはぐくむ文化財ー
文京区教育委員会 平成10年3月
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『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用ーーー
江戸東京の坂道 胸突坂(むねつきざか)
目白台一丁目一番と関口二丁目一一番の間を江戸川駒塚橋の北詰から上る急坂で、坂下の西側に水神社があるので水神坂ともよばれる。
その東側は俳聖芭蕉が貞享年間、関口水道の工事に従事したころ、このあたりに居したことを記念する芭蕉庵の旧跡があり、その上の方は椿山荘の庭園である。「府内備考」には「胸突坂は牛込家の屋敷の脇なり、此坂を下れば上水のはたなり。あまりに坂のけはしくて胸をつくばかりなれば名付くといふ。」とあり、「新撰東京名所図会」には「元禄十年水神社の境内を横貫して聞きたる坂路なり」とかかれている。
昔、江戸川上水は、この関口でいったん流れをせき止め、木樋をかけて分水を北側台地ぞいに導き小日向水道として下町に配水したのが関口の名の起こりであり、この関を通称「どんど」といった。水が滝瀬となって激しく流れ落ちていたことの形容詞であろう。その流れの清さ、堤の自然美は島崎藤村の「若菜集」の「おえふ」にもうたわれているが、明治三十年代のこのあたりの田園風景の淋しさを吉江狐雁の「車の男」が次のようにつたえている。
早稲田田圃の冬枯の寂しさ、黒く微かに西の方に見えてゐる秩父の峯を超えて、吹いて来る風の寒さ、名物の茗荷畠も枯れ々になり、江戸川の蘆(あし)の葉は皆折れて水に浸ってゐる。朝夕此田圃を通ふつらさは、都下の何処の学生も想像だにも及ばない。
(中略)
此様な雪の或る日暮方晩く、私は一人江戸川堤を関口の方へ降りて行った。四辺が薄暗く、雪の途が一条ほんのりと前方に見えてゐる。そして蝙蝠(コウモリ)が二三羽悲しげに鳴いて、流の上飛んで居た。妙に気の沈む晩で寒さがひし々身に迫って来た。下駄の雪を払ひながら、枳殻藪(からたち)の所まで来ると、最う夕闇が一面に鎖して、只瀑布(ばくふ)の音が其れを破って聞えるばかり、瀑布の向岸の一軒家も、此方の岸の家々も戸も鎖して、只窓から燈火が幽かに洩れて見えるばかりであった。
また、大正初年にかかれた近松秋江の小説「疑惑」は胸突坂を次のように描いている。
五月(つゆ)空の黒い空が圧被さるように低く垂れ下がって、田中邸の厳しい石塀の外は、死んだやうに闇寂(ひっそり)と静まり返って、塀の上から暗を照してゐる電燈の光で狐疑するやうに上からぢっと梢の下暗を覗いて見たけれど胸突坂には誰も上って来るものはないらしい。私は元気を出して降りて行った。自分の耳がいろんな響を立てて鳴ってゐるのが分る。江戸川端に出ると、早稲田田圃に一面に降り蒔いたやうに蛙の啼き声がしてゐる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一番下はこの庭園前の神田川沿いを散歩していた赤いシューズをはいたリクガメ。写真を撮ったのは10年ちかく前だが、寿命が長い亀だからまだ健在だろうと思う。

※肥後細川庭園の映像はこちら(720×1280 29.2MB mp4)

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2022 8/10 『関口の大洗堰(目白下大洗堰)<神田上水取水口の石柱>』

地図の青丸部分にかつて神田川(神田上水)、関口の大洗堰があった。

案内板より引用ーーーーーーーーーー
神田上水取水口の石柱
井の頭池を源流とするわが国最初の神田上水は、関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下を樋で神田、日本橋方面に給水した。
この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。
ここにある石柱は、当時のもので、昭和八年大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。
なお上水にとり入れた余水はお茶の水の堀から隅田川へ流された。
昭和五十八年十二月 文京区
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
このあたりは肥後細川庭園や永青文庫、椿山荘など今でも観光名所になっている。徳川慶喜や松平容保が屋敷を構えたのも、歴代の首相や権力者なども住んだのも風光明媚でとても落ちつく場所だったことだろう。

※文京ふるさと歴史館 関口界隈 「関口大洗堰」

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2022 8/4 『古道<長崎道> 板橋区“子易神社前 高田道の辻〜熊野町 熊野神社前”』

地図の灰色の線が古道で長崎道(ながさきみち)と言われている。

いたばしの地名より<長崎道(ながさきみち)>引用ーーーー

長崎から来て高松、南町を通り熊野町三番地の中丸橋を渡り雑司ヶ谷道に入り板橋宿へ行く道です。
幕末頃長崎より板橋の遊郭等へ通う夜道で昔の唄に「思い中丸たんぼを行きて、帰り寒しい金井窪」という流行歌もあったといいます。又江戸期南町の大辻付近より長崎へ行く道は曲がりくねっていたという。或る代官が長崎方面から馬で巡視に来て畑の中を真っすぐつっきり、大辻迄来たときに「長崎高松これ迄か」と言ったので道は真っ直ぐになったと伝承されています。(南町の荒井広祐氏説)
※長崎神社方面へ行き来する道で、椎名町駅前にある長崎神社手前で、椎名町道と合流する。
※雑司ヶ谷道:古道で高田道、高田雑司ヶ谷道とも呼ばれる。

いたばしの古道より<長橋道(ながはしどう)>引用ーーーー
町時代の府費補助道で「板橋間道」を「境橋」の手前で別れ、中丸の熊野神社前を通り、谷端川に沿い現南町を過ぎて豊島区長崎の東部を経て旧清戸道に至る。
板橋区域内の延長は凡そ572間(約1030m)、道幅2間(約3.6m)で曽ては人家の乏しい田圃道であった。
長崎村の若者たちが農事を終え板橋遊郭へ通う夜道でもあった。次の唄はその事情がしのばれる。◯思い中丸田圃を行って帰りさむしい金井窪、現在は「山手通り環状6号」で大方は昔の姿を消している。
※長橋は長崎と間違えているのではないかと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
写真の矢印1から2にかけて、長崎道は消滅している。
高田道が東武東上線を渡る場所に、かつて金井窪駅があったが、駅舎が焼け落ち、また下板橋駅と大山駅の間がとても短いこともあり廃止された。 金井窪駅前の高田道沿いはかつて大変賑わっていたと言われているので、駅が造られたのだろうと思う。現在でも商店が連なり、池袋氷川神社や交番もあることから、当時の賑わいを推測することができる。

長崎道は昔からある道ゆえに近隣住民の生活道路で、歩行者や自転車、車両の交通量も多い。
写真矢印6から先は環状六号線の山手通りに吸収され消滅しているが、山手通りの測道として長崎道が残っている。その先600年以上の歴史がある熊野神社の前を通ることからも古くからある道だと分かる。

写真一番下、熊野町熊野神社の八咫烏おみくじのお守り。八咫烏は熊野神社の神様の眷属であり、道先案内の役割があるという。
サッカー協会?のロゴも八咫烏であることは有名だが、何かと何かが関係があるのだろうか。

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■板橋区板橋2丁目・大山金井町 高田道 金井窪の峠(高稲荷山の切通し)
■東京府北豊島郡金井窪村 今も残る金井窪村の痕跡

■古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>
■板橋区仲町 轡神社近く 鎌倉街道沿いの庚申塔
■板橋区仲町(旧 山中) 鎌倉街道沿い 徳川家康の乗馬のくつわを祀ったともいわれる轡神社
■鎌倉街道と新旧川越街道の交差点にある手押しポンプ(井戸水)

■清戸道の名家

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2022 8/3 『工夫して遊ぶ 極めて前傾姿勢になるレーシーなカマキリハンドルのチャリンコ』

COLUMN 2008年6月-9月から引用・・・アンコールアワーです。??
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『工夫して遊ぶ 極めてレーシーなカマキリハンドルのチャリンコ』・・・子供の頃からずっと大切にしているコト。
小学6年の頃、姉が自転車が欲しいと母にねだった。『白くて、藤のカゴが付いててカマキリハンドルの自転車!』と。そして我が家にやってきた。姉と僕は4歳離れている。その頃、姉は高校生だったが電車通学ということもあり、殆ど跨がらなくなり、いつしか『僕専用』のチャリへとなっていた。
人と違うコトをすることが好きな僕は自分好みの姿へとカスタムをし始めたのだ。(←カマキリハンドルのチャリ/参考)


数ヶ月後このような姿のチャリへと生まれ変わった。余計なものは全て取っ払い、カマキリハンドルは上下逆にし、サドルは目一杯高くした。
このようなカスタムで何故数ヶ月もかかったかというと、このレーシーなチャリに相応しいタイヤにする為に、鉄ヤスリで前後のタイヤの『溝』を一日数時間かけて削り上げて、ツルッツルにしたのだ・・・そうスリックタイヤにね。
毎日腕がパンパンになった。
通常チャリのタイヤはあまり減らないような材質のゴムだから大変大変だった。そこいらのガキでは無理だったでしょう・・・しかし、腕っ節が強かったから可能だった。そして持ち前の根性で毎日毎日ひたすらに削ったのだ。(自分で言うのもなんだが)

●学んだこと‥‥‥『折れない心を養う』
このチャリ、、跨がった時点でもう『ちょ〜速い』気分が味わえた。しかし、何故だか恥ずかしかったので、夜な夜な人が居ない広めの道路へと持ち出し、全身全霊でもって直線を漕いで、身体の限界最高速をたたき出していたのだ。

●失敗したコト1‥‥‥『膝が胸に当たり、がに股でないと漕げなかった。故にノーマルの方が断然最高速は速かった』

●失敗したコト2‥‥‥『極度の前傾姿勢で前方視界不良(首がぶっとくないと前見えない)につき、アブナイ。こけたらもれなくハンドルポストトップにアゴを中心とした顔面強打の恐れアリ』
ガキの頃のそんなコト、大事です。
余談であるが、小学校でカマキリハンドルのチャリを流行らしたのは紛れも無くボクであった。
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そして・・・2008年6月28日土曜日の早朝、セルフタイマー使って『跨がった状態』を再現してみた。かなりムズかった,,,脚がうまいことならなかった。。寝室で寝ている妻を起こさずに、すり足でそぉ〜っとピカッ!(セルフタイマーとフラッシュね)撮ること9枚。。土曜の早朝に何やってんだか、、、。フォトショップで切り抜いて貼付けて、拡大縮小させて、回転させて・・・そりゃぁ時間かかるわな。
ちなみに・・・左の写真と右の写真、どっちが格好いいか迷ったのでどちらも掲載させて頂きました。・・・つーか、右の写真、、アゴ危なっ!
12歳の頃と今では体格が違うから、厳密に言うともっと滑稽なスタイルだったと思う。
このピスト風で原宿〜渋谷の明治通りを疾走していたら、絶対に雑誌の取材を受けると思うよ・・・『新しい』もんね、、誰かやってみませんか?

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2022 8/1 『千石自慢らーめん<閉業> 通学往復路で「いただきま〜す」』

2022年7月31日、34年間の営業を終えた。閉業とのことで、完全撤退。実に残念。

初めて食べに行ったのはたぶん開業して少し経った頃だから、30年以上は通っていたと思う。本店をはじめ、上池袋店、鴬谷店だったかな、王子店などバイクで近くを通ったら寄っていた。
通っていた学校が田町にあり、バイク通学で店の前を通るものだから、授業開始前に食べて、帰路また食べてってのを繰り返していたし、西麻布や六本木で夜遊びした帰りにもしょっちゅう食べに行ってたし、晩飯前に食べてってのもよくしてたので、そりゃぁ体も大きくなりますよね。若い頃だったから胃も大変丈夫だったし。
言い方が悪いけど、改装前の本店のギトギトで滑る床、そろりそろりと上がった2階のトイレも懐かしい。(他のお店と間違えていたらすいません)その頃の店員さんの顔も憶えているし、丼の底に崩れたチャーシューが入っていたのもうれしかった。深夜、茗荷谷(小日向)から歩いて本店に行き、ちょっと足りないなと〆で近くのモスバーガーでまた頬張ったこともあったなぁ。
気づくと上池袋店(明治通り沿い、たぶん現 酒屋<かくやす>のところ。)、王子店と出店してお店が今のように変わった。
後期・晩期は工夫をした様々なメニューを出していましたね。

それから時を経て、いつだっただろうか....上から3枚目、これが2010年で、店長らーめん、まかないらーめん?だっただろうか、っていう少し安いメニューが登場。この頃くらいから味は変わらなくおいしいけど、少しずつパンチが抑えめになって、みんなが食べやすいようになっていったと感じた。
その下が2019年の12月、飲んだ帰りに寄った時のもので、味は変わらずおいしいけどもうパンチが抑えめでマイルドになっていて、ニンニクを多めに入れるとちょうどいいように思った。なんせ、30年くらい前の本店のみだった頃のパンチありありの味に慣れていたから。
その下、上から5・6・7枚目が2007年で、連れて行った妻は、これ、塩だったかな、、を食べていた。もやしがたっぷり乗っておいしいタレがかかっているもやしらーめんは、沢山食べる青年にとってはなくてはならないメニューだった。

白山ラーメン・巣鴨ラーメン・千石自慢らーめんは白山通りの背脂豚骨醤油ラーメンの三傑ではないかと思う。
ラーメンは詳しくないけど、環七にあった土佐っ子ラーメンがこれらの原点なんでしょうね....その味を知っている方がやっているお店があって今でも食べられるように、千石自慢らーめんの味を知っている方がまたどこかで開業してくれればうれしい。

おつかれさまでした。

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