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2019 5/22 『池袋東貝塚遺跡』

池袋と言われると、駅周辺エリアが中心と思っている方も多いが、実際は、というか、かつては池袋駅よりも1−2kmくらいだろうか....離れている池袋本町といわれる地域が中心だった。 本町という文字どおり、こちらが中心ということ。
地図の黒い線が板橋宿と高田・雑司が谷を結んでいる“高田道”と言われる古道で、分岐した先は春日方面へも繋がっている。
このことからも分るが、 メインストリートである高田道が通っている池袋本町がかつての中心ということ。
新川越街道の開通によって高田道は分断されて、池袋駅方面へは“平和通り”と言い、あまり治安が良くない地域へと入っていく。
池袋駅の北(西)と東を結ぶトンネルはウィロードと呼ばれていて、正式名称は雑司が谷隧道で、その先は明治通りにつながる。高田道はこのウィロードとほぼ同じルートだろうと思う。
池袋付近の明治通りは高田道を吸収し、上池袋付近では鎌倉街道も吸収して、現在に至る。

さて、池袋東貝塚は地図のピンあたりにあったようで、写真は2018年11月17日に撮ったもの。
調査のお知らせの後ろには道路予定地の看板が立っていて、地図の黄色い線のピンあたりは、補助第73号線として幅員が広くなるために、立ち退きが進んでいて、その際に埋蔵文化財の発掘調査をすることが出来たということで。
地図の青い線が今は消滅した谷端川で、この付近は舌状台地の端となる。
谷端川が流れていたこともあって、縄文人はこの付近を住みかとして生活をしていたのだろう。少し北上すると石神井川が流れ、もう少し約3km進むとそこはもう海(遠浅だったようだ)で、貝も大量に獲れていたことが分っていて、中里貝塚は国指定史跡として指定されている。
(最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる、縄文時代の海浜低地に形成された巨大な貝塚。焼き石を投入して水を沸騰させて貝のむき身を取ったと考えられる土坑や焚き火跡、木道などが確認されている。生産された大量の干し貝は、内陸へ供給されたものと想定され、縄文時代の生産、社会的分業、社会の仕組みを考える上で重要である。via

池袋東貝塚からは縄文土器以外にも、ハマグリやカキ、それにシカやイノシシなどの動物の骨が大量に見つかったそうだ。

引用----------------------------
No.2遺跡 「池袋東貝塚」〜地元の考古学者が見出だした、幻の貝塚

今回は、「池袋東貝塚」を紹介します。豊島区遺跡地図では、池袋本町三〜四丁目の一角がその範囲とされていますが、げんざい正確な位置は不明となっています。都市化が進む豊島区にあって、失われゆく自然環境と同じく、遺跡もまたかつての面影を留めることは、ひじょうに難しいことと言えます。
さて、この貝塚の発見は、いまをさかのぼること120年余、実に明治時代後半のこととなります。近隣の氷川神社裏貝塚が、このころ著名な遺跡として学界の注目を集めたことは前回お話しした通りですが、この貝塚に魅せられ、訪れた研究者の一人にまいだ蒔田鎗次郎(そうじろう)という若き考古学者がいました。彼は現在の豊島区駒込一丁目に居を構えていた地元の研究者ですが、氷川神社裏貝塚へおもむく途中、偶然にも新たな貝塚を発見したものです。彼の報告によれば、貝層は当時の地表から深さ30cm前後で確認され、かなりの規模をもった貝塚であったようです。そこから、多数の縄文土器や石器が発見されました。
この貝塚は、鎗次郎によって「池袋東貝塚」と名づけられました。しかし、発見からまもなく、周辺の宅地化が進み、本格的な調査も行なわれないまま貝塚の姿は失われていきました。いまや貝塚の正確な位置は不明ですが、推定位置の周辺では今も縄文土器をはじめとした遺物が発見されますので、ここに縄文人の集落が存在していたことは間違いないでしょう。さらに、新しい発見もありました。2000年に豊島区教育委員会によって行なわれた発掘調査で、弥生時代後期の竪穴住居址が発見され、ここに弥生時代の集落が存在したことが明らかとなったのです。この遺跡周辺では、多少の断絶はあるにせよ、貝塚が築かれた縄文時代から、のちの弥生時代に至るまで、人々が連綿として生活を営んでいたわけです。
ところで、この蒔田鎗次郎、彼は池袋東貝塚の発見の後、考古学史上に大きな業績を残すことになるのですが、これはまた別の機会にお話しすることにしましょう。ただ、彼の名は豊島区の遺跡を語る上で、これからもたびたび登場することとなります。

としま遺跡調査会
より --------------
写真は豊島区役所より引用

【過去記事】池袋富士塚と池袋貝塚

【過去記事】
谷端川(源泉から池袋本町)
谷端川 2(池袋本町から小石川)
谷端川と池袋の名の由来
神田川に注ぐ谷端川
谷端川のお多福弁天
谷端川 田楽橋
谷端川 大塚にある瀧不動
板橋区大山西町の用水路
石神井川
かつての石神井川
石神井川 旧河道
石神井川 旧河道の露頭
昭和の石神井川
霜降銀座 古石神井川と谷田川
石神井川 沼
石神井川に佇む不動明王 安全の祈願
石神井川の付け替え
石神井川 東宮降誕植桜之碑
石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所
旧石神井川(古石神井川)の跡 飛鳥山・滝野川付近
中板橋のプールと水神宮、練馬城 住宅地にある堀
下野谷遺跡
王子七滝
長池跡(谷田川源流)
谷田川に架かっていた橋の親柱
不忍池
水窪川
田柄川
ボクらのホームグラウンド、前谷津川
ボクらのホームグラウンドの前谷津川の支流
池袋の川 弦巻川
千川上水跡
分水嶺、千川上水調節池跡
玉川上水
玉川上水 旭橋の石柱と下水用石樋
河骨川(春の小川)
自然の猛威 渋谷川千駄ヶ谷・代々木支流付近の谷
中台馬場先貝塚
池袋富士塚と池袋貝塚
池袋東貝塚遺跡
急傾斜地
新宿区 赤城元町の崖
赤塚不動の滝と大根
四谷荒木町 策の池、紅皿の墓
のぞき坂
巣鴨遺跡
駒込富士神社と古墳群
猿楽古代住居跡(代官山)
東池袋遺跡
庚申塚 巣鴨遺跡
代官山の古墳と鎌倉街道 中道
須藤公園
根ノ上遺跡
稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)
田柄川の水源と茂呂遺跡
豊島区の湧き水と池
稲荷台遺跡
赤羽自然観察公園の湧水
渋谷川 氾濫危険水位
公開された茂呂遺跡
東京の坂道 網干坂
北区西ヶ原 熊野坂
北区十条仲原 游鯉園の坂
逆川(古石神井川の流路)
今宮神社駐車場の湧水
赤羽台第3号古墳石室
巣鴨遺跡 町屋跡
巣鴨遺跡 柳沢家
出井の泉跡(出井川)
板橋区 清水坂
千川上水 喜内古屋水車跡
千川上水 水神様
北区 道音坂
赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域と稲付城跡にある静勝寺から宝幢院の道標
縄文人の一生 西ヶ原貝塚に生きた人々
北区赤羽西 真正寺坂
板橋志村、この地に生きて 大野邦雄 遺稿集
北区滝野川 狐塚の坂
水無橋 神南2丁目1番先
穩田川(渋谷川)の支流
庚申塔 恵比寿西二丁目11番7号
弥生式土器の発見地
文京区小日向二丁目19と21の間 鷺坂
北区西ヶ原 大炊介坂(おおいのすけざか)